たとき、これによって私が神の余のすべての完全性に達することができないのか、また最後に、何故に、かかる完全性に至る力が、もし実際に私のうちにあるならば、かかる完全性の観念を作り出すに十分でないのか、私は理解しないから。
 否、かかることは何らあり得ない。すなわちまず第一に、私の知識が一歩一歩増大せられるということ、また未だ現実的にはないところの多くのものが可能的に私のうちにあるということは真であるにしても、かくのごとくことは何ら神の観念に適しない。神の観念のうちには疑いもなく単に可能的であるものは何もない。またこの一歩一歩増大せられるということはまさに不完全性の極めて確実な証明なのである。次に、たとい私の知識は常にますます増大せられるとはいえ、しかも私は、それが、だからといって、決して現実的に無限なものにならないであろうということを理解する、なぜなら私の知識はこれ以上の増大を容れないというところには決して達しないであろうから。しかるに神は、その完全性には何ものも加えられ得ないというように、現実的に無限である、と私は判断するのである。そして最後に、観念の客観的有は、本来からいえば無であるところの単に可能的な有によってではなく、かえってただ現実的な有、すなわち形相的な有によってのみ生ぜしめられ得る、ということを、私は知覚するのである。
 まことにこのすべてのことには、注意深く考察するとき自然的な光によって明瞭でないものは何もないのである。しかしながら私がそんなに注意しないで、感覚的なものの像が精神の眼を盲にする場合、何故に私よりもいっそう完全な実有の観念は必然的に、或る実際にいっそう完全なる実有から出てこなければならないかを、私は容易に想起しないからして、さらに進んで、かかる観念を有するところの私自身は、もしかかる実有が何ら存在しなかったならば、存することができたかどうか、を探究したいと思う。
 いったい私は何者から出てきたのであろうか。もちろん私は私自身から、それとも両親から、それとも何か他の、神よりも少く完全なものから。というのは、神よりもいっそう完全なものは、神と同じ程度に完全なものでさえ、何も思惟せられることも想像せられることもできないのであるから。
 けれども、もし私が私自身から出てきたとすれば、私は疑うということがなかったであろうし、また願望するということがな
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