起する場合、なおまた私がその数を理解している種々の思想を有する場合、私は持続と数との観念を得、しかる後これをどのような他のものへも移すことができる。物体的なものの観念を構成するその他のすべてのもの、すなわち延長、形体、位置及び運動は、もちろん、私は思惟するもの以外の何ものでもないのであるからして、私のうちに形相的には含まれないが、しかし、それらは単に実体の或る様態であり、私はしかるに実体であるから、優越的には私のうちに含まれ得ると思われる。
かようにして残るところはただ神の観念のみである。この観念のうちには何か私自身から出てくることのできなかったものがあるかどうかを考察しなければならぬ。神という名称のもとに私が理解するのは、或る無限なる、独立なる、全智なる、全能なる、そして一方、私自身を、また他方、もしさらに何ものかが存在するならば、存在するほどのものの一切を、創造したところの、実体である。まことにこのすべての性質は、私がこれに注意することの深ければ深いだけ、いよいよ、単に私自身から出てきたものであり得ると思われないのである。それゆえに、前述のことから、神は必然的に存在する、と結論しなければならない。
なぜかというに、私は実体であるということそのことから、たしかに実体の観念が私のうちにあるとはいえ、だからといってそれは、私は有限であるからして、実際に無限であるところの或る実体から出てきたのでなければ、無限なる実体の観念ではなかったであろうから。
また、私は無限なるものを真なる観念によって知覚するのではなく、かえって、あたかも静止や闇を運動や光の否定によって知覚するごとく、単に有限なるものの否定によって知覚する、と思ってはならない。なぜなら反対に、無限なる実体のうちには有限なる実体のうちにおけるよりも多くの実在性があること、また従って無限なるものの知覚は有限なるものの知覚よりも、言い換えると、神の知覚は私自身の知覚よりも、いわばいっそう先なるものとして私のうちにあることを、私は明瞭に理解するからである。というのは、もし私のうちに、それとの比較によって私が私の欠陥を認めるところの何らかいっそう完全なる実有の観念が存しなかったならば、いかにして私は、私を疑うこと、私が欲求すること、言い換えると、或るものが私に欠けていて、私はまったく完全ではないこと、を理解したであろ
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