からよりほかの他のところから発したとしたならば、どういうわけで神が欺瞞者でないことが理解せられ得るのか私にはわからないからである。従って、物体的なものは存在する。しかしおそらくそのすべてはまったく私がそれを感覚によって把捉するがごときものとして存在するのではなかろう、この感覚の把捉は多くの場合極めて不明瞭であり不分明であるから。しかしながら少くともそのうちにおいて私が明晰かつ判明に理解する一切のもの、言い換えると、一般的に見るならば、純粋数学の対象のうちに包括せられる一切のものは、実際に有るのである。
しかるにその余のものについていえば、それらのものは、例えば、太陽はかくかくの大きさまたは形体のものである、等々のごとく、単に特殊的なものであるか、それとも、例えば、光、音、苦痛、及びこれに類するものののごとく、より少く明晰に理解せられたものであるかであるが、たといそれらのものは極めて疑わしい不確実なものであるにしても、しかもまさにこのこと、すなわち、神は欺瞞者ではないということ、従ってまた私の意見のうちにはいかなる虚偽も、これを訂正する或る能力がまた私のうちに神によって賦与せられている場合のほかは、見出されることがあり得ないということは、それらのものにおいてもまた真理に達し得る確実な希望を私に示すのである。そして実に自然によって教えられるすべてのものが何らかの真理を有するはずであるということは疑い得ないことである。なぜなら、私がいま一般的に見られた自然というのは、神そのもの、それとも神によって制定せられたところの被造物の整序以外の何物でもなく、また特殊的に私の自然というのは、神によって私に賦与せられたすべてのものの集合体以外のものではないからである。
ところで、私が身体を有すること、すなわち、私が苦痛を感覚するときにはその具合が悪く、そして私が飢えまたは渇きに悩むときには食物あるいは飲料を必要とし、等々といった、身体を有することよりもいっそう明白にこの自然が私に教えることは何もない。従ってまたこのことのうちに或る真理が存することを私は疑うべきではないのである。
また自然はこれら苦痛、飢え、渇き、等々の感覚によって、あたかも水夫が船のなかにいるごとく私が単に私の身体のなかにいるのみでなく、かえって私がこの身体と極めて密接に結合せられ、そしていわば混合せられていて、
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