私は或る他の能力、例えば場所を変じる能力、種々の形体をとる能力、その他これに類するものを認知するが、これらの能力もたしかに、前のものと同じく、これらの能力がそのうちに内在する或る実体を離れては理解せられることができず、従ってまたこの実体を離れては存在することができない。むしろこれらの能力が、もしたしかに存在するならば、物体的実体すなわち延長を有する実体に、しかし思惟的実体にではなく、内在しなくてはならぬということは明瞭である。なぜなら、これらの能力の明晰で判明な概念のうちには、もちろん或る延長が含まれるが、しかしいかなる悟性作用もまったく含まれないからである。しかるに今たしかに私のうちには感覚する或る受動的な能力、すなわち感覚的なものの観念を受取り認識する能力があるが、しかし私はこれをば、もし私のうちに、あるいは他のもののうちに、或る能動的な、かかる観念を生産するあるいは実現する能力がまた存在しなかったならば、何ら用い得なかったであろう。しかもこの能動的な能力は実に私自身のうちに存することができない。なぜなら、それはいかなる悟性作用をもまったく予想しないし、またかかる観念は私が協力することなしに、かえってしばしば私の意志に反してさえ生産せられるから。ゆえにそれは私とは別の或る実体のうちに存すると考えるほかはない。そしてこの実体のうちには(既に上に注意したごとく)この能力によって生産せられた観念のうちに客観的に有る一切の実在性が形相的にか優越的にか内在しなくてはならないからして、この実体は物体、すなわちもちろんかかる観念が客観的に含む一切のものを形相的に含むところの物体的本性であるか、それとも神そのものであるか、それともかかる一切のものを優越的に含むところの、物体よりも高貴な或る被造物であるかである。しかるに、神は欺瞞者でないゆえに、神がかかる観念を、直接に自己自身によって私に伝えるのではないこと、またかかる観念の客観的実在性をば形相的にではなく単に優越的に含むところの或る被造物の媒介によって私に伝えるのでもないことは、まったく明白である。なぜなら、神はこれがそのような被造物の媒介によるのであると認知するいかなる能力をもまったく私に与えなかったし、かえって反対にかかる観念が物体的なものから発すると信じる大きな傾向性を私に与えたのであるから、もしかかる観念が物体的なもの
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