四角なものであることが明かになったことがあったし、またこれらの塔の頂に据えられた非常に大きな彫像が、地上から眺めるときには大きなものと思われなかったことがあった、そして私はかくのごとき他の無数のものにおいて外的感覚の判断が過つことを見つけたから。単に外的感覚の判断のみではない、また内的感覚の判断もそうであった。なぜなら、何が苦痛よりもいっそう内部的であり得るだろうか、しかも私はかつて、脚あるいは腕を切断した人々から、自分ではまだ時々この失くした身体の部分において苦痛を感じるように思われるということを聞いた、従ってまた、私においても、私が身体の或る部分において苦痛を感じるとしても、その部分が私に苦痛を与えるということは、まったく確実ではないように思われたから。これらの上にまた私は最近二つの極めて一般的な疑いの原因を加えたのである。その第一のものは、私の醒めているときに私が感覚すると信じたもので、眠っている間にまたいつか私が感覚すると考え得ないものは決してなく、そして私が睡眠中に感覚すると思われるものは、私の外に横たわるものから私にやってくると私は信じないゆえに、どうしてこのことをむしろ私の醒めているときに感覚すると思われるものについて私が信じるのであるか、私にはわからなかったということであった。もう一つの疑いの原因は、私は私の起原の作者をこれまで知らなかったゆえに、あるいは少くとも知らないと仮定したゆえに、私に極めて真なるものと見えたものにおいてさえ過つというように私が本性上作られているということをば、いかなるものも妨げるものを私は見なかったということであった。そして以前に私が感覚的なものの真理を説得させられたところの理由についていえば、これに対して答えることは困難でなかった。というのは、理性が制止した多くのものに私は自然によって駆り立てられるように思われたので、自然によって教えられるものに多く信頼すべきではないと私は考えたから。またたとい感覚の知覚は私の意志に懸っていないとしても、だからといってそれが私とは別のものから出てくると結論すべきではないと私は考えたから。なぜならおそらく、私にはまだ認識せられていないとはいえ、私自身のうちにはかかる知覚を作り出すものとして何らかの能力があるかもしれないからである。
 しかしながら今、私は私自身並びに私の起原の作者をいっそうよ
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