あろうか。しかしながら私はかくのごときものの何ものも明晰かつ判明に知覚したのではなく、かえって私はおそらく、真理のこの規則を知らなかったために、後になってそんなに堅固なものでないことを発見したところの他の原因によって信じたのである。しからば、ひとはなお何を言おうとするか。私はおそらく夢みているのだ(少し前に私が自分に反対して言ったように)、すなわち、私が今思惟するすべてのものは眠っているときに浮んでくるものより以上に真ではないのだ、とでも言うであろうか。否このこともまた何らことがらを変じない。なぜなら確かに、たとい私は夢みているにしても、もし何らかのものが私の悟性に明証的であるならば、このものはまったく真であるから。
そしてかようにして私は一切の知識の確実性と真理性とがもっぱら真なる神の認識に懸っていることを明かに見るのである、従って、私が神を知らなかった以前は、私は他のいかなるものについても何ものも完全に知ることができなかったであろう。しかるに今や私には、一方神そのもの及び他の悟性的なものについて、他方また純粋数学の対象であるところの一切の物体的本性について、無数のものが明かに知られているもの、確実なものであり得るのである。
[#改丁]
省察六
物質的なものの存在並びに精神と身体との実在的な区別について。
なお残っているのは、物質的なものが存在するかどうかを検討することである。そしてたしかに私は既に少くとも、それが、純粋数学の対象である限りにおいては、存在し得ることを知っている、たしかに私はそれをかかるものとしては明晰かつ判明に知覚するのであるから。なぜなら、神が私のこのように知覚し能うすべてのものを作り出す力を有することは疑われないことであり、また私は、どのようなものでも神によって、それを私が判明に知覚することは矛盾であるという理由によるほかは、決して作られ得ぬことはない、と判断したからである。さらに、私が物質的なものにかかずらう場合にそれを用いるのを私が経験するところの想像の能力からして、かかる物質的なものは存在するということが帰結するように思われる。というのは、想像力とはいったい何であるかをいっそう注意深く考察するとき、それは認識能力にまざまざと現前するところの、従って存在するところの物体に対する認識能力の或る適用以外のなにものでもな
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