私の意見を捨てさせるであろう、そしてかようにして私は何ものについてもかつて真にして確実なる知識を有することなく、ただ漠然とした変り易い意見を有するにすぎないであろう。かようにして、例えば、私が三角形の本性を考察するとき、たしかに私には、もちろん私は幾何学の原理にいくらか通じているので、その三つの角が二直角に等しいということは極めて明証的に認められ、また私は、私がその論証に注意する間は、このことは真であると信ぜざるを得ないが、しかし私が精神の眼をこの論証から転じるや否や直ちに、たとい私はなおこれを極めて明晰に洞見したことを想起するにしても、もし実際私が神を知らなかったならば、このことは真であるかどうかを私が疑うようになるということは容易に起り得るのである。というのは私は、私が自然によって、極めて明証的に知覚すると私の考えるものにおいて時々過つがごときものとして作られているということをば、とりわけ後になって他の根拠にとって偽であると判断するに至らしめられたところの多くのものをしばしば真にして確実なるものと看做したということを想起するときには、自分に説得することができるから。
 しかるに私が神は有ると知覚した後には、――同時にまた私は余のすべてのものが神に懸っていること、また神は欺瞞者ではないことをも理解し、そしてそこから私の明晰にかつ判明に知覚するすべてのものは必然的に真であると論決したゆえに、――たとい私がどのようなわけでこのことは真であると判断したかの根拠に十分に注意しないにしても、ただ単に私がこのことを明晰かつ判明に洞見したことを想起するならば、私をして疑うようにさせるいかなる反対の根拠も持ち出され得ず、かえって私はこのことについて真にして確実なる知識を有するのである。否、単にこのことについてのみでなく、また私がかつて論証したと記憶するところの余のすべてのものについて、例えば幾何学に関すること及びこれに類するものについても、さうである。というのは、今やいかなる反対の根拠が私に対して持ち出されるであろうか。私がしばしば過つがごときものとして作られているということででもあろうか。しかし既に私は、私が分明に理解するものにおいては過ち得ないことを知っている。それとも私が後になって偽であるとわかったところの多くのものを他の時には真にして確実なるものと看做したということででも
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