て最後に、私は神のうちに、その何ものも私によって引き去られることも変ぜられることもできないところの多くの他のものを知覚するゆえに。
 しかしともかく、私が結局どのような証明の根拠を使用するにしても、つねにこのこと、すなわちただ私が明晰かつ判明に知覚するもののみが私をまったく説得するということ、に帰著するのである。そしてたしかに、このように私が知覚するもののうち、或るものは何人にも容易にわかるにしても、他のものはしかしいっそう近く観察し注意深く研究する者によってでないと発見せられないが、しかし発見せられた後には、後者も前者に劣らず確実なものと思量せられるのである。例えば、直角三角形において、底辺上の正方形は他の二辺上の正方形の和に等しいということは、かかる底辺はこの三角形の最も大きな角に対するということほど容易にわからないにしても、ひとたび洞見せられた後には、後者に劣らず信じられるのである。ところで神について言えば、確かに、もし私が先入見によって蔽われていなかったならば、そしてもし私の思惟が感覚的なものの像によってまったく占められていなかったならば、私は何ものをも、神より先に、またはいっそう容易に、認知しなかったであろう。なぜなら、最高の実有があるということ、すなわちただそのもののみの本質に存在が属するところの神が存在するということよりも、何がいっそう、おのずから明かであるであろうか。
 そして、まさにこのことを知覚するために注意深い考察が私に必要だったとはいえ、今や私は単にこのことについて、他の最も確実と思われるすべてのことについてと同等に、確かであるのみでなく、さらにまた私は余のものの確実性がまさにこのことに、これを離れては何ものも決して完全に知られ得ないというように、懸っていることに気づくのである。
 すなわち、たとい私は、何らかのものを極めて明晰かつ判明に知覚する間は、これを真であると信ぜざるを得ないがごとき本性を有するにしても、しかしまた私は、精神の眼をつねに同じものに、これを明晰に知覚するために、定著し得ないごとき本性をも有するゆえに、しばしば以前に下した判断の記憶が蘇ってくる、そして、どういうわけでそのものをかように私が判断したかの根拠に十分に注意しないときには、他の根拠が持ち出されることができ、この根拠は私をして、もし私が神を知らなかったならば、容易に
前へ 次へ
全86ページ中58ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
デカルト ルネ の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング