らして、確かに真である、従ってまた或るものであり、純粋な無ではない。というのは、すべて真であるものは或るものであることは明かであり、また私が明晰に認識するすべてのものは真であることを私は既に十分に論証したのであるから。そしてまたたとい私がこれを論証しなかったにしても、少くとも私がそれを明晰に知覚する限りは、いずれにせよこのものに同意せざるを得ないということは、確かに私の精神の本性である。また私は、私がつねに、これより先、感覚の対象にはなはだしく執着していた時にさえも、この種の真理、すなわち形体とか、数とか、また算術もしくは幾何、あるいは一般に純粋なそして抽象的な数学に属する他のものについて、私が明証的に認知したところの真理をば、あらゆるもののうち最も確実なものと看做したということを想起するのである。
ところで今、もし単に、私が或るものの観念を私の思惟から引き出してくることができるということから、このものに属すると私が明晰かつ判明に知覚する一切は、実際にこのものに属するということが帰結するとすれば、そこからまた神の存在を証明する論証を得ることができないであろうか。確かに私は神の観念を、すなわちこの上なく完全な実有の観念をば、何らかの形体または数の観念に劣らず、私のうちに発見する。また私は、つねに存在するということが、神の本性に属することをば、或る形体または数について私の論証するものがこの形体または数の本性にまた属することに劣らず、明晰かつ判明に理解する。従って、たとい過ぐる数日私の省察した一切が真でなかったにしても、神の存在は私のうちにこれまで数学上の真理があったのと少くとも同じ程度の確実性にあるのでなくてはならなかったであろう。
もっとも、このことはたしかに、一見してはまったく分明ではなく、かえって或る詭弁の観を呈している。なぜなら、私は他のすべてのものにおいて存在を本質から区別することに慣れているゆえに、神の存在もまた神の本質から切り離されることができ、そしてかようにして神は存在しないものとして思惟せられることができる、と私は容易に自分を説得するからである。しかしながらいっそう注意深く考察するとき、神の存在が神の本質から分離せられ得ないことは、三角形の本質からその三つの角の大きさが二直角に等しいということが分離せられ得ず、あるいは山の観念から谷の観念が分離せら
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