人形の家
ET DUKKEHJEM
ヘンリック・イブセン Henrik Ibsen
島村抱月譯
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)悄《しよ》げちやあ
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)命|賭《が》け
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)トル※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ルト
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)にこ/\
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人物
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トル※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ルト・ヘルマー
ノラ(ヘルマーの妻)
醫師 ランク
リンデン夫人
ニルス・クログスタット
ヘルマー家の三兒
アンナ(三兒の保姆)
エレン(女中)
使の男
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場所
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ノルウェーの首都クリスチアニアにあるヘルマーの家(大建物の内部を幾家屋かに仕切つた一つ)
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第一幕
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居心地よく趣味に富んで、それで贅澤でない設備の一室、奧、右手は廊下へ通ふ扉、左手はヘルマーの書齋に通ふ扉、それから前によつて窓、窓の傍に小さい圓テーブル、二三脚の肱掛椅子、小さい一臺のソファ。また右側の壁には少し奧によつて扉、ずつと前によつて瀬戸で疊んだストーヴ、その前に二脚の肱掛椅子と一脚のロッキングチェアとがあつてストーヴと扉の中程に小さいテーブル。双方の壁には版畫が懸つてゐる。置棚には陶器、骨董品など、また見事な裝釘の書物を詰めた小さな本箱が据ゑてある。敷物は絨氈、ストーヴには火が燃えてゐる冬の日。廊下の方でベルが鳴ると、すぐ外の扉のあく音がして、ノラがはしやいだ樣子で鼻唄を唄ひながら入つてくる。外出服のまゝで、幾つかの小包を提げてゐる。それを右手のテーブルの上に置く、廊下への扉は明け放したまゝで使の男の立つてゐるのが見える。その男は持つてきたクリスマス・ツリーと堤籠とを戸を明けに出た女中に渡す。
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ノラ そのクリスマス・ツリーをよく隱してお置きよ、エレン。晩にすつかり火をつけるまでは、子供達に見せちやいけないよ。(金入れを出しながら使の男に向つて)幾ら?
使の男 二十五エール。
ノラ はい、五十エール、いゝえ、おつりは取つてお置き。(使の男禮をいつて去る。ノラは戸を閉めて默つて嬉し氣ににこ/\し續けながら外出仕度のものを脱ぐ。隱しから一袋のパン菓子を取出し一つ二つ喰ひながら、夫のゐる室の扉の側へ爪立足で歩みより聞耳をたて)さうよ、家にゐるわ、ラヽヽヽヽ(右手のテーブルの方へ行きながら又鼻唄をはじめる)
ヘルマー (自分の室で)そこで囀つてるのは家の雲雀かい?
ノラ (忙しげに手近の小包を開きながら)さうですよ。(一つの包みをピアノの傍のマントの下にかくす)
ヘルマー 跳ね廻つてるのは栗鼠さんかい?
ノラ えゝ。
ヘルマー 栗鼠さん、いつ歸つてきたんだい?
ノラ 今歸つてばかし(パン菓子の袋を隱しに忍ばせ口を拭ふ)いらつしやいよ、あなた、買物をしてきたから御覽なさいよ。
ヘルマー うるさいな(暫くして扉を開けペンを持つたまゝ此方を覗いて)買物をした? それを皆かい? 家の無駄使家がまたお金を撒き散してきたね。
ノラ だつてあなた、もういゝわ、少しくらゐお金を使ひに出かけたつて。やつとクリスマスが樂にできるやうになつたんですもの。
ヘルマー おい/\、無駄にお金を使つちやよくないな。
ノラ いゝぢやないの(ヘルマーにすがる)少しでいゝから無駄使ひをさして頂戴、極少しでいゝから、ね? あなた、今に山ほどお金を儲けるんぢやありませんか。
ヘルマー そりや新年からはさうだが、しかし給料の手に入るまでには、まだまる三月もあるからな。
ノラ 構ふもんですか、その間借金して置けば。
ヘルマー ノラ! (女の方へ行つて戲れに耳を引つ張り)相變らず暢氣だなあ。まあ假に今私が五百クローネも借りたとするぜ、それをお前がクリスマスの間に使つてしまふ、そして年越しの晩に屋根から瓦が落ちてきて俺の腦天を割つたとする――
ノラ (男の口に手を當てゝ)嫌よ/\! 何て嫌なことをおつしやるの(自分の耳をふさぐ)
ヘルマー まあさ、さうなつたと假定する――さうするとどうなるだらう?
ノラ そんな大變な騷ぎになつちや借金のことなんか考へてやしません。
ヘルマー けれども貸した人はどうする?
ノラ 貸した人? 誰が構ふもんですか、赤の他人ぢやありませんか。
ヘルマー こら、ノラ! お前は何といふ女だ、まあ眞面目に考へて御覽、私の主義はお前も知つてるぢやないか。一切負債をしない、借りないといふのが私の主義なんだ。借りや負債で家庭が出來上るが最後、自由な美しい生活といふものは亡びてしまふ、私達はかうして今まで踏ん張つてきたんだから今少しのがまんだ。
ノラ (ストーヴの方へ行きながら、ちよつとスカートを擴げておじぎする)畏まりました――あなたのお氣に召すやうに。
ヘルマー (跡につきながら)おい/\、家の小雲雀はそんなに羽を落して悄《しよ》げちやあいけない。おや! 栗鼠さん、拗ねてるのかい? (金入を取出し)ノラこれは何?
ノラ (急に振り向いて)お金!
ヘルマー そうら! (紙幣を幾枚か與へて)無論クリスマスには色んな物の入ることはわかつてるよ。
ノラ (勘定しながら)五、十、十五、二十クローネ、まあ! 有難う、有難うね。これだけあれば當分大丈夫ですわ(隱しにしまふ)
ヘルマー どうかさうして貰ひたいね。
ノラ 實際ですよ、當分大丈夫。まあこゝへいらつしやいな、買つてきた物を見せますから。非常に安いんですよ。そら、この新しい服と小さい劍《サーベル》とがイ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ールので、こちらの馬と喇叭がボブの。それからエンミーには人形と搖籠、これはあまり平凡でしたけれども直ぐ毀しちまふんですからねえ。それから女中達のは布地と襟飾りにしました。もつとも婆やにはも少し良いものが遣りたかつたんだけれど。
ヘルマー そのこつちの包みは?
ノラ いけませんよ。それは晩まで見せないで置くの。
ヘルマー あゝ、はあ、それでお前は何を買つたんだい、いたづら屋さん。
ノラ 私? えゝ、私は何もいらないの。
ヘルマー 馬鹿をいふなよ。氣の利いたもので何か欲しいものがあるなら、いつて御覽。
ノラ いゝえ、本當にいらないの――さうね、あのね。
ヘルマー ふむ?
ノラ (男の上着のボタンをいぢくりながら顏を見ないで)あなた本當に何か買つて下さるつもりなら、あのね、ほら、あのね――
ヘルマー ふむ、ふむ、いつて御覽。
ノラ (早口に)お金を下さる方がいゝわ、いくらでもいゝから。さうすると私、自分であとから何か買ひますわ。
ヘルマー だけれど、お前――
ノラ あら、さうして下さいよ、ね、どうか。さうすればそのお金を綺麗な金紙に包んでクリスマス・ツリーに吊り下げますわ。いゝ思ひつきでせう。
ヘルマー えゝと、いつも金を撒き散らしてる者を何とかいつたつけな。
ノラ 知つてますよ、無駄使家といふんでせう。けれどもね、あなた。どうかさうして下さいよ。さうすると何が一番先に買ひたいか、私ゆつくりと考へますわ、その方が利口でせう?
ヘルマー (微笑しながら)全くさうだ。たゞお前が自分の物を買ふ時までその金を持つていられゝばいゝがさ。みんな家の用だの下らない買物だのに無くしてしまつて、そして私がせびられるんだからな。
ノラ まあ、あなた。
ヘルマー 嘘だといふのかい? (女を片手に抱いて)こんな可愛らしい雲雀が隨分と物凄く金を使ふものだ。お前ほどの小鳥を一羽飼ふためにどれ位金がかゝるか人にいつたつて本當にはしないからねえ。
ノラ およしなさいよ、そんなこと。私、殘せるだけは殘しますわ。
ヘルマー (笑ひながら)よかつたね――殘せるだけ殘しますは――所が一向殘せません。
ノラ (得意さうな體で鼻唄、にこ/\しながら)ふむ、私のやうな雲雀や栗鼠がどの位お金を使ふか、今にわかるでせうよ。
ヘルマー お前は不思議な人間だ。丁度お前のお父つあんのやうだ。いつも金ばかり欲しがつてゐて、それで金が手に入ると、もう指の間からでもこぼすやうに無くしてしまふ。何に使ふんだかわかりやしない。が、まあいゝさ、ま、お前はいつまでも、お前でゐて貰ひたいな、かうやつて可愛らしい小鳥のやうに囀つてね。おや何だかお前は變に怪しいぜ、今日は。
ノラ 私?
ヘルマー あゝ、さうだ。こつちを向いて御覽。
ノラ (夫の方を見ながら)はい。
ヘルマー (指でつゝく眞似をしながら)此奴、今日はいけないといふ物を食べたな。
ノラ 嘘ですよ、ひどい人。
ヘルマー 菓子屋をちよつぴり覗きやしなかつたか?
ノラ 嘘ですよ、あなた、本當に。
ヘルマー ゼリーを一なめやりはしなかつたか?
ノラ 嘘、誰がそんなことをするものですか。
ヘルマー パン菓子を一つ二つ摘みやあしなかつたか。
ノラ 嘘ですつてばねえ。
ヘルマー よし/\、冗談だよ。
ノラ (右の上手のテーブルの方へ行き品を包む)あなたがいけないといふことを何で私がするものですか。
ヘルマー さうだらう/\。お前は誓つたんだものな(女の方へ行きながら)ぢやあ、まあお前が企んでることはクリスマスの祕密として取つとくさ。今にクリスマス・ツリーにあかりをつければみんなわかることなのだらう。
ノラ あなた、ランク先生をよぶことを忘れはなさらなくて?
ヘルマー 忘れちやつた。けれどもいゝよ。無論くるだらう。今日にもきたらさういはう。それからね、上等の葡萄酒を誂へて置いたぞ。私がどんなに今夜を待ち焦れてゐるか、お前には想像できまいね。
ノラ 私だつてさうですわ、子供がどんなにか嬉しがるでせう、ねえ。
ヘルマー あゝ、地位は固まるし、金は取れるし、素晴らしい勢だ。考へると實に愉快ぢやないか。
ノラ えゝ、すてきですわ。
ヘルマー お前去年のクリスマスのことを覺えてるかい。まる三週間も前から、お前は皆を驚かさうといふんで部屋に引込んだまゝ夜中過ぎになつても寢ないでクリスマス・ツリーの花だの色んな飾りだのを拵へたつけ、私はあの時ほど退屈したことはない。
ノラ 私はまた退屈するどころぢやあなかつたわ。
ヘルマー (笑ひながら)それで結果はどうかといふとまるで形なしでねえ。
ノラ あら、あなたは、またそんなことをいひ出して私をからかふつもり? だつて仕樣がなかつたんですもの。猫が入つてきてすつかり壞しちまつて。
ヘルマー さうだつたな、可愛さうに。お前は皆を喜ばせてやらうと思つて一生懸命になつたんだから、まあその志だけで澤山さ。とにかく去年は苦しかつたが、それが昔話になつたのは目出たいな。
ノラ ねえ、すてきですわね。
ヘルマー もう私もこゝに坐つて、獨りで退屈してる必要もなし、お前だつてその可愛らしい目や細つそりした指で夜通しかゝつてクリスマスの飾りをこしらへる必要もなしさ。
ノラ (手を打ちながら)えゝ、そんな必要もなくなりましたわねえ、全く考へるとすてきですわ(男の腕を取り)だから私、今日はあなたにお話しますわ、これから先どういふ風にやつて行くかといふ私の考へを、ね、クリスマスがすむと――(廊下の入口のベルが鳴る)ベルが鳴つてよ(室内を片づけながら)誰かきたんですよ、うるさいわね。
ヘルマー 俺は留守のことにして置くのだよ、忘れちやいけないよ。
エレン (室の入口で)奧さまご婦人の方がお出でになりまして、お目に掛りたいとおつしやいます。
ノラ 誰だらう? お通しして。
エレン (ヘルマーの方へ)それからお醫者さまも、いらつしやいました。
ヘルマー 書齋の方へか?
エレン はい。
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(ヘルマーは書齋に入る。エレンが旅行服
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