姿のリンデン夫人を通して跡の扉をしめる)
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リンデン (おづ/\とためらひながら)ノラさん、お變りもなく。
ノラ (不審げに)お變りもなく。
リンデン お忘れなすつたでせうねえ。
ノラ はあ、つい――あ、さう/\――たしか――(俄に元氣づいて)まあどうしたんでせう、クリスチナさん! 本當にあなたでしたのね。
リンデン えゝ、私ですわ。
ノラ クリスチナさん、まあ、あなたを見忘れるなんてどうしたんでせう。だけどまるつきり――(一層柔かに)あなた隨分お變りになつてね。
リンデン えゝさうでせうとも。九年か十年の間。
ノラ お別れして、もうそんなになりますかねえ。さうね、さうなりますわ、あゝ、この八年ばかりは私本當に幸福でしたのよ。でかうしてあなたがいらして下すつて、よくまあ此の冬空に遙ばると出てらつしやつたわねえ。勇氣があるわ。
リンデン 今朝の汽船で着きました。
ノラ 樂しいクリスマスをしようと思つてでせう? よかつたわね。えゝ、愉快にやりませうよ。まあ、そんな物お取んなさい。冷えるでせう? (手傳ひながら)さあこれでいゝわ、火の側でゆつくり話しませうよ。いえ、あなた、その肱掛椅子におかけなさい。私はこの動く方がいいの(リンデンの兩手を取つて)なるほど、かうやつてみると、やつぱり昔の懷しい顏だわ。初めちよつと見た時には、さう思はなかつたけれど――たゞ少し顏色が昔よりか惡いやうよ、それから幾らかお痩せになつたんでせう。
リンデン それにね、お婆さんになつたんですよ。
ノラ さうね、幾らか年もお取りになつた――けどそんなぢやなくつてよ――ほんの少うしばかり(突然話を切り眞面目になつて)まあ、私なんといふうつかり者でせう。お喋りばかりしてゐて――クリスチナさん許して下さいね。
リンデン 何をです?
ノラ (柔らかに)あなた、お氣の毒ねえ、私忘れてゐた。未亡人にお成りになつたんでせう?
リンデン えゝ、あの人が亡くなつてから三年になります。
ノラ さう/\それでね、本當はね、手紙を差上げるつもりでしたの、ところが延ばし/\してる中に色んなことが起つたもんですから。
リンデン それはノラさん、よく承知してゐますよ。
ノラ いゝえね、申譯がないんですよ。でも本當にあなたはお可愛さうねえ。隨分色んな目におあひなすつたでせう? そして遺産もなんにも無いのですか?
リンデン 何もありません。
ノラ お子さんは?
リンデン 子供もないんですよ。
ノラ まるつきり何も無いんですね?
リンデン 無いつたら、それこそ、心配の種も無ければこれから先どうといふ望み一つも殘つちやゐないんですよ。
ノラ (不思議さうにリンデンを見て)だつてクリスチナさん、まあどうしてそんなことが。
リンデン (微笑しながら髮の毛を撫でて)それはあなた、折々そんなことになるものですよ。
ノラ まるで一人ぼつち! どんなにか心細いでせうねえ。私は三人子供を持つてゐますが可愛んですよ。今乳母と外へ行つてゐますからお目にはかけられないけど。それはさうと、まああなたのお話をすつかり聞かせて下さい。
リンデン いえいえ、あなたこそ、どうぞ。
ノラ いけませんわ、あなたからお始めなさいよ。今日は私自分のことはお話したくないんですから。今日はあなたのことばかし考へてゐたいんですから。あ、さう/\、一つだけお話することがありますわ――だけど、もうお聞きになつたでせう、主人が大變な出世をしましたことを。
リンデン へえ、どうなさつたの。
ノラ まあどうでせう、主人が銀行の支配人になつたんですよ。
リンデン ご主人が? ほんとにお仕合せねえ。
ノラ えゝ、まあ、辯護士なんてものは、きまつた當のない職業ですからね。ちよつとでも暗いことのある仕事はすまいとなると尚のことさうですし、主人は勿論暗いことが大嫌ひで、私だつてその主義ですから、とてもやり切れませんわ。それで今度は私ども、どんなにか喜んだでせう? 新年からそつちへ行くことになつてるのですよ。給料もどつさり取れて配當もあるんですからねえ、これからは、すつかり今までと違つて見違へるやうな暮しができます――實際どんな暮しでも好きなことができるんですよ。あゝ私、本當に氣が浮き/\して幸福ですの。お金が澤山あつて心配ごとは少しもなし、申分ないでせう。
リンデン えゝ、いるだけのものが取れゝばね、幸福に相違ありません。
ノラ いるだけぢやありませんよ、お金が山ほど――山ほど取れるんですもの。
リンデン (微笑しながら)ノラさん、あなたはいまだにねんねえですのねえ。ご一緒に學校に行つてる頃から、大變お金を使ふことの好な方でしたつけが。
ノラ (靜かに微笑しながら)えゝ今でもさうですつて、トル※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ルトがいつてますのよ(指で突く眞似をしながら)けれどもね、この「ノラさん」は皆が考へてる程馬鹿ぢやあないんですよ。本當は私まだそれほど無駄使ひ家になれる身の上ぢやないんです。夫婦共稼ぎでしたもの。
リンデン あなたがですか?
ノラ えゝ、ちよつとした手細工仕事をよ、編物だの刺繍《ぬひとり》だの、まあそんなことをね(意味ありげに)それから、もつと外のこともしましたの、無論ご存じでせうがトル※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ルトは結婚するとすぐ役所の方を引きました。というのは、あんまり出世の見込もなかつたし、お金は段々いつて來ますしね。それやこれやで結婚した當座一年といふもの、あの人が無理な仕事をしたんです。何でも構はないからといふので朝早くから晩くまで色んなことをしてたうとう病氣になつて倒れちまつたのです。それでお醫者は是非南ヨーロッパの方へ轉地しろといふんでせう。
リンデン えゝ/\、たしかイタリアに一年行つてらつしやつた?
ノラ 行つてましたの。ですけれど、それまでの算段が容易ぢやなかつたんですよ。丁度イ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ールが生れたばかりでしてね、それかといつて止す譯にはいかないから、まあやりくりをして出かけたんですが、旅行はいゝ旅行でしたわ。トル※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ルトの命もそのお蔭でとりとめますし、たゞクリスチナさん、かゝりが大變でしてねえ。
リンデン さうでせうとも。
ノラ 千二百ターレル、隨分かゝつたでせう?
リンデン そんなお金があつたのですから、結構ですわ。
ノラ それは私の父の手元から出たのです。
リンデン なるほどね、あなたのお父さんは、丁度あの時お亡くなりでしたね。
ノラ えゝ、さうですよ、それでどうでせう。私行つて看護することもできなかつたんですよ、イ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ールの生れるのを今日か/\と待つてた時でしてね、そしてそれがすむと今度は主人があの病氣で私はその方へつきつきりでせう? 私をあんなに可愛がつてくれた父ですけれど、可愛さうにそれつ切り會へないで死んぢまひました。結婚してから一番辛かつたのは、あの時ですわ。
リンデン あなたは大變お父さん思ひでしたわね。で、それからイタリヤへいらつしやつたの?
ノラ えゝ、お金はできますし、お醫者は是非といふもんですから、一ヶ月ばかりして立ちました。
リンデン それですつかり良くおなりなすつたのですか?
ノラ すつかり丈夫になりました。
リンデン ですけれど――さつきのお醫者さまは?
ノラ 何ですの?
リンデン 私、こちらへ參つた時に、丁度女中さんがさう申してゐやしませんでしたか?
ノラ えゝ、えゝ、ランク先生。あの人はね、病氣を見に來るんぢやありません。私共の親友でして、毎日缺かさず、あゝやつて話しに來るんですよ。トル※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ルトはその後一日でも病氣で寢たことなんかありません。それから子供も丈夫で元氣ですし、私もこの通りぴん/\してゐるでせう(とび上つて手を叩き)ねえ、まあ、クリスチナさん、生きてゐられて、それで幸福でさへあれば、これ程結構なことはありませんねえ。あら、私まあ、本當にどうしたんでせう、自分のことばかり喋つてゐて(すぐ前にある足載臺の上に坐りクリスチナの膝に兩手をかけて)どうぞね、怒らないでゐて頂戴。さあ今度は私が聽き手ですよ、實際ですか、あなたはお連れ合を愛していらつしやらなかつたといふのは? それでどうして結婚なすつたの?
リンデン その頃はまだ私の母が生きてまして、床へ就いたきり動けなかつたのですよ。で、一方には二人の弟の世話もしなくちやならないし、いつそのこと、あの人から申込んで來たのを幸ひ、身を固めるのが私の義務かと思つたのです。
ノラ それはねえ。で、その方は金持だつたんでせう?
リンデン 工面がよかつたやうですよ。けれども、やつてる事業が手固く行かなかつたもんですから、あの人が亡くなると一緒に目茶々々に壞れてしまひましてね、塵一つ殘らない目に逢ひました。
ノラ それから?
リンデン それから色々工夫しまして店を開いてみたり小さな學校もやつてみたり、できるだけのことはしてみました。この三年間は私に取つちや、長い絶間のない戰爭でしたよ。けれども、もうそれも終へました。心配してゐた母は、もう私に用のない身になつて墓場へ行くし、弟達は仕事の口があつて獨立してやつてゐます。
ノラ さぞ、自由な身になつたとお思ひでせうね。
リンデン いゝえ、ノラさん、何ともいへない淋しいものですよ。誰を當に生きてるといふぢやなし(いらいらした樣子で立ち上り)私があんな邊鄙な處に居たゝまらなくなつたのもそのためです。こちらへ來たら本當に仕甲斐のある仕事が見つかるだらうと思ひましてね。何でもいゝから私の氣を外へ散らさせない仕事がしたいと思ひますのよ。何かきまつた勤め口でもあればいゝんですがねえ――會社へでも出るやうな――
ノラ だけどクリスチナさん、そんなことは氣の詰るものでせうよ。あなたは大變疲れていらつしやるやうだから、それよりか温泉にでも行つて保養した方がよかありません?
リンデン (窓の方へ行きながら)私にはお金を出してくれる父もゐませんし。
ノラ あら、お氣に障つたらご免なさいね。
リンデン (ノラの方へ行きながら)ノラさん、ねえ、私こそお氣に障つたらご免なさいよ。私のやうな不幸な身になりますとね、氣難かしくばかりなつてね、誰を當ともなく、それでゐていつも油斷してはゐられないし、第一生きて行かなくちやなりませんから、どうしても手前勝手になります。さつきもあなた方がお仕合せな身分にお成りだと聞いた時は――お恥かしいことですが――私、あなた方よりも自分のために、まあよかつたと思つたのですよ。
ノラ といひますと? あゝわかりました。主人があなたのために盡力してくれるだらうと仰有るのでせう?
リンデン えゝ、さう思つたのですよ。
ノラ 盡力させますとも。そのことはすつかり私にお任せなさい。私が何かあの人の氣の向くやうに旨《うま》いことを考へて、見事にやらせて見せます。本當にまあ私、何かあなたのおためになるやうなことがしたいわ。
リンデン 美しいご親切ですわねえ。美しいといへば、あなたのご氣性は本當に美しい、浮世の荒い波風に揉まれていらつしやらないから。
ノラ 私が? 揉まれてゐないんですつて――?
リンデン (微笑しながら)さうですね、少しばかりの内職くらゐのものでせう。全くのねんねえでいらつしやるのですよ。
ノラ (頭を立てゝ室内を歩く)おや/\、そんなにねんねえ扱ひにするもんぢやありませんわ。
リンデン ぢやあないんですか?
ノラ あなたも外の人と同じことねえ、みんな寄つてたかつて、私をまるで眞面目なことの出來ない人間にしてしまつてよ。
リンデン それはね――
ノラ 私、この窮屈な世間の苦勞をまるで知らないと思つてらつしやるのね。
リンデン だつてノラさん、あなたは今、これまでの苦勞をみんなお話なすつたぢやありませんか。
ノラ ほゝ――あんな詰らないこと! (柔かに)私まだ大事件をお話
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