命の鍛錬
關寛

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)余《よ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)三十五|年《ねん》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「冫+咸」、63−2]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)心身《しん/\》を
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      第一

余《よ》明治《めいぢ》三十五|年《ねん》春《はる》四|月《ぐわつ》、徳島《とくしま》を去《さ》り、北海道《ほくかいだう》に移住《いぢゆう》す。是《これ》より先《さ》き、四男《しなん》又一《またいち》をして、十勝國《とかちのくに》中川郡《なかがはごほり》釧路國《くしろのくに》足寄郡《あしよろごほり》に流《なが》るゝ斗滿川《とまむがは》の畔《ほとり》に牧塲《ぼくぢやう》を經營《けいえい》せしむ。明治《めいぢ》三十七|年《ねん》戰爭《せんさう》起《おこ》るや、又一《またいち》召集《せうしふ》せられ、故《ゆゑ》に余《よ》は代《かは》りて此《この》地《ち》に來《きた》り留守《るす》を監督《かんとく》する事《こと》となれり。我《わが》牧塲《ぼくぢやう》は事業《じげふ》漸《やうや》く其《その》緒《ちよ》に就《つ》きしものにて、創業《さうげふ》の困難《こんなん》に加《くは》ふるに交通《かうつう》の不便《ふべん》あり。三十七|年《ねん》一|月《げつ》大雪《おほゆき》の害《がい》と、其《その》七月《しちぐわつ》疫疾《えきしつ》の爲《ため》に、牛馬《ぎうば》其《その》半《なかば》を失《うしな》ひたるの災厄《さいやく》あり。其他《そのた》天災《てんさい》人害《じんがい》蝟集《ゐしふ》し來《きた》り、損害《そんがい》を蒙《かうむ》る事《こと》夥《おびたゞ》しく、余《よ》が心《こゝろ》を惱《なやま》したる事《こと》實《じつ》に尠《すくな》からざるなり。此《この》間《あひだ》にありて余《よ》が憂愁《いうしう》を掃《はら》ひ去《さ》り、心身《しん/\》を慰《なぐさ》めたるものは、實《じつ》に灌水《くわんすゐ》なりとす。
數十年前《すうじふねんぜん》より行《おこな》ひ居《を》れる灌水《くわんすゐ》は、北海道《ほくかいだう》に移住後《いぢゆうご》、冬時《とうじ》と雖《いへど》も怠《おこた》りたる事《こと》あらず。此《この》地《ち》には未《いま》だ井戸《ゐど》なきを以《もつ》て、斗滿川《とまむがは》に入《い》りて行《おこな》へり(飮用水《いんようすゐ》も此《この》川《かは》の水《みづ》を用《もち》ゆ)。此《この》地《ち》の冬季《とうき》の寒威《かんゐ》は實《じつ》に烈《はげ》しく、河水《かすゐ》の如《ごと》きは其《その》表面《へうめん》氷結《へうけつ》して厚《あつ》さ尺餘《しやくよ》に到《いた》り、人馬《じんば》共《とも》に其《その》上《うへ》を自由《じいう》に歩《あゆ》み得《う》。冬時《とうじ》此《この》河《かは》に灌水《くわんすゐ》を行《おこな》ふには、豫《あらかじ》め身體《しんたい》を入《い》るゝに足《た》る孔穴《こうけつ》を氷《こほり》を破《やぶ》りて設《まう》け置《お》き、朝夕《あさゆふ》此《この》孔穴《こうけつ》に身《み》を沒《ぼつ》して灌水《くわんすゐ》を行《おこな》ふ。
斗滿川《とまむがは》は余《よ》が家《いへ》を去《さ》る半町餘《はんちやうよ》の處《ところ》に在《あ》り。朝夕《あさゆふ》灌水《くわんすゐ》に赴《おもむ》くに、如何《いか》なる嚴寒《げんかん》大雪《おほゆき》の候《こう》と雖《いへど》も、浴衣《ゆかた》を纒《まと》ひ、草履《ざうり》を穿《うが》つのみにて、他《た》に何等《なんら》の防寒具《ばうかんぐ》を用《もち》ゐず。
冬曉《とうげう》早《はや》く蓐《じよく》を離《はな》れて斗滿川《とまむがは》に行《ゆ》き、氷穴中《へうけつちゆう》に結《むす》べる氷《こほり》を手斧《てをの》を以《もつ》て破《やぶ》り(此《この》氷《こほり》の厚《あつ》さにても數寸餘《すうすんよ》あり)身《み》を沒《ぼつ》し、曉天《げうてん》に輝《かゞや》く星光《せいくわう》を眺《なが》めながら灌水《くわんすゐ》を爲《な》す時《とき》の、清爽《せいさう》なる情趣《じやうしゆ》は、實《じつ》に言語《げんご》に盡《つく》す能《あた》はず。

      第二

昨《さく》三十七|年《ねん》十二|月《ぐわつ》某夜《ばうや》の事《こと》なりき、例《れい》の如《ごと》く灌水《くわんすゐ》を了《を》へて蓐《じよく》に入《い》り眠《ねむり》に就《つ》きし間《ま》もなく、何者《なにもの》か來《きた》りて余《よ》に七福《しちふく》を與《あた
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