も全治すべからざるを悟りて、予に懇切に乞うて曰く、此度《このたび》は决する事あり、依て又一に面会して能く我等夫婦が牧塲に関する素願《そがん》たるの詳細を告げ示し置きたし、依て牧塲に行き又一と交代して又一をして早く帰宅せしめられたしと。乞う事切なり。且つ此れは妾《わらわ》が大に望む処なりと、数回《すかい》促されたり。予は今世《このよ》の別れとは知り、忍びざるも、然れども露国に対するの戦端開け、又一が召集せらるるも近きにあらんか、依て速《すみやか》に又一を札幌に出でしめ、責めては存命中に又一に面会せしめて、十分に話を致させるとして出発するも、心は残りて言うべからざるに迫まれり。尚死後の希望を予に向うて乞う事切なり。左《さ》に。
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一、葬式は决して此地にて執行すべからず。牧塲に於て、卿《けい》が死するの時に、一同に牧塲に於て埋《う》めるの際に、同時に執行すべし。
一、死体は焼きて能く骨を拾い、牧塲に送り貯えて、卿が死するの時に同穴に埋《うず》め、草木《そうもく》を養い、牛馬の腹を肥せ。
一、諸家《しょけ》より香料を送らるるあらば、海陸両軍費に寄附すべし。
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五郎は常に看護を怠らず、最も喰料《しょくりょう》には厚く注意して滋養品を取り、且つ何の不自由無し、故に予が傍らに在らざるも少しも差支無きとて、出発を促せり。予が発途後は何等の異状も無し。倉次氏は時々来診せられたり。然るに十二日の朝は、例により臥床《がしょう》を放れて便所に行《ゆ》きて、帰りて座に就くや、暫時にして俄かに面貌変じたり。夫れより只眠るが如くにして絶息せり。急ぎて倉次氏を迎うるも、最早致すべき無し。
然るに近隣及び知人は集りて五郎を助け、東京へも電信を発し、マスキはキク、ヒデを同行にて来り、厚く葬儀を営み、且つ遺言により骨は最も能く拾いて集め箱に入れ置きたるを、予は其後《そののち》に自ら負うて牧塲に帰りて保存せり。アア三十五年に徳島を発する時は、老体ながらも相共に手を携うるも、今や牧塲には白骨を存するのみ。肉体無きも、無形の霊たるや予が傍らに添うて苦楽を共に為すを覚えたり。早晩予も形体は無きに至るも、一双の霊魂は永く斗満の地上に在《あっ》て、其|盛《さかん》なるを見て楽《たのし》まん事を祈る。
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亡き魂《たま》よ、ここに来りて、諸共に、幾千代かけて駒を守らん。
秋の夜の、俤《おもかげ》うつる夢さめて、ねやにただきく川風の音。
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廿九日、餘作来塲して予を慰む。
寛は亡妻の病めるや既に不治にして必死たるべきを决定するを以て、死去後には憂いとは思わざるのみならず、亦忘れんと欲するも、如何《いかん》せん精神上に於ける言うべからざるの欝を以てし、且つ全身は次第に衰弱して喰料を※[#「冫+咸」、207−12]じ、動作困難にして、耳鳴|眩暈《めまい》して読書するにも更に何の感も無く、亦|喰物《しょくもつ》に味無く、只恍惚たるのみ。餘作にも語り合い、此儘にて空《むなし》く沈欝に陥る時は、或は如何に転変するに至らん乎と、自らも此れを案じ、餘作も共に慰めくれて、此際には精神上一大変化を実行して、此難関を一掃すべきの大奮励を要すべきを悟り、此れが為めには先ず例年暑中には海水浴を実行するを以て、此れに習い今回は温別《おんべつ》にて行い、且つ甞《かつ》て高岡氏より釧路支庁長に向うて予が為めに厚意を報ずるの一通あり、未だ釧路に出でざるを以て、此一通を釧路支庁長に呈し、且つ予が現状と牧塲の現状とを語るべし、更に甞て予が厚く信ずる処の二宮尊徳翁の霊位を藻岩村《もいわむら》二宮|尊親《そんしん》氏の家に至りて親《したし》く拝せん、且つ其遺訓をも拝聴し、及び遺書をも親く拝読せん事を切望し、尊親氏にも約する処あるを以て、此れを実行せば或は精神上に於けると転地療法とを二つながら全うせん事に决し、七月五日餘作同行にて発途。足寄橋にて別れて餘作が後貌《うしろすがた》を遥《はるか》に眺めて一層の脱力を覚えたるも、強《しい》て歩行し、漸く西村氏に泊す。此際に近藤味之助《こんどうあじのすけ》氏は学校に在勤して慰めくれたり。
然るに其後両日間は非常なる暴雨にて、休息し、晴れを待って発するに、センビリ川は増水して、漸く増人《ましびと》を以て渡る。其日|上徳《うえとく》氏に泊し、夫れより釧路に出でたるも、支庁長不在なるを以て書状を置き、帰路|白糠《しらぬか》軍馬補充部を一見して菅谷《すげや》氏に一泊し、温別にて海水に浴す。此際は汽車は浦幌《うらほろ》迄通ずるのみ。浦幌に泊し、豊頃《とよころ》に至る。前《ぜん》九時なり。此れより十勝川を渡り藻岩《もいわ》村に向わんとす。然るに昨日迄は満水にて渡船無きも、今日《こんにち》に至り漸く丸木舟にて渡すとて川向に着す。川には流材多く危険にして、泥水と腐草とは舟を妨げる事ありしなり。然るに藻岩村に行くの道路に向うて僅に四五十間行くに、昨日迄の洪水は去れども、瀦水《ちょすい》は膝を浸す。尚行くに従うて深きが如し。依て渡人《わたしびと》なる土人に其詳細を聴くに、道路は深くして腰を浸すべし、強《しい》て藻岩に行くには堤防を行き、夫より畑の中を通り、遥に見ゆる処の小屋に至り、夫れより間道を通らば藻岩に至ると。依て土人を傭《やとう》て、助けられて行くとせり。然るに泥水とゴミと流れ、木材多く、歩行困難にして或は倒れんとする事あり。依て土人に手をひかれて歩するに、深さ膝を過ぎ、泥水中に朽木《くちき》を踏みて既に危く倒れんと欲するあり。或は大《おおい》なる流材ありて、此れを跨《またが》りて越えるあり。或は畑の溝にて深き所ありて股を浸すあり。故に一歩毎に危く、片手は土人にひかれ、片手には倒れ木を握り、或は蝙蝠傘を杖として歩行するが為めに、胸迄泥水に浸されて、僅に脊負う所の風呂敷を浸さざるのみ。為めに或は立ながら休み、或は泥水中に倒れ木によりて休みて、数回倒れんとしたるを遁るるのみ。為めに呼吸促迫し、更に今朝《こんちょう》浦幌にて僅に粥二椀を喰したるままにて、豊頃にては昼飯《ひるはん》を喰せざるを以て、追々空腹を覚え、殊に歩行は遅くして、三時頃に至り彼の小屋に着したり。然るに泥水の中に三時間余在るを以て、寒くして震慄を覚えたり。依て農家に頼み、火にて暖まり、湯を飲みたるも空腹なるを以て食事を乞うも、黍飯なり、且つ硬くして喰する時は胃痛下痢を発する事を恐れて、忍んで藻岩村に向う。此間廿町ばかりなるも、泥水の溜まるあり、或は道路の破《いた》む処ありて歩行甚だ究するも、漸く二宮家に着するを得たり。然るに尊親氏は不在なり。妻君に面会を乞うに、未だ一面識無きのみならず、大に怪むが如し。此れは予が半体以上は泥水に汚《けが》れ、面色《かおいろ》も或は異様なりしなるべし。然れども強て尊親氏の面会を乞う。近隣にありて、帰宅す。予が現状を見て大に驚けり。依て其詳細を述ぶるに、俄に風呂をわかし、着類を洗いくれ、負う所の着類を換えて、初めて精神に復したり。尚乞うて粥を喰す。空腹のみならず疲労あるとて鶏卵を加えて饗せられたり。然るに過般来《かはんらい》は喰《しょく》味《あじ》無く、且つ喰後は胃部には不快を覚えたるも、今や進んで喰するを好むも、然れども注意して少量にして尚空腹を覚ゆるを耐忍せり。且つ尊親夫婦は最も喰味《しょくみ》の調理に意を用いて、漸次《ぜんじ》に喰量を増し、粥をも少しずつを濃くせり。実に初めは極薄きを用い、追々其喰料を増加して漸次に復常《ふくじょう》し、書を読み、或は近傍を歩行するに至れり。然るに尊親夫婦は厚意を以て日々滋養品を交々《こもごも》に饗せらるるにより、漸次体力復したり。従うて精神上に於ても大に安堵ありて、日々尊徳翁の霊位を拝し、且つ遺訓と其遺れる二宮家庭を視、或は遺書を拝写して、一週間を経て体力復し、精神上の快活を得たり。為に欝を忘れ、喰気《しょくけ》は追々増加して、一層の快を覚えたるを以て、彼家《かのいえ》を去るに至れり。爾後は漸次に喰量を増し、食後の胃痛も無くして、心身復常せり。ああ此時に在りて誤りて空《むなし》く床上に在て只平臥する事あらば、或は心身共に衰弱するに至るべきなり。此れ泥水の内に在て空腹にて困苦するのみならず、過度の運動するが為めに喰機を振起し、為めに心身一大変動を起すに至り、尚尊徳翁の霊前に侍したるの感動により精神上の活溌の地に進み、更に尊親夫婦の厚意の切なる喰料を饗せられたるとを感じて、夫れより二宮家と数層の親睦を厚うせり。
同《おなじく》廿五日、寛は帰塲せり。
八月、土人イコサックル我牧塲内の熊害を防ぐ為めに居ると定めて、橋畔に小屋をかける。
三日、馬、熊害にかかる。
十五日、又一動員令下るの報あり。
二十日、寛は又一を見送るが為めに札幌に向う。
二十九日、寛は又一に面語す。
甞《かつ》て将来の事を語らんと欲したるも、然れども夫れは実に大なる予が迷いたるの事たるを悟れり。戦地に出《いず》るは、此れ死地に勇進するなり。殊に世界第一等たる強兵たるの露国に向うて為す事あるは、此れ日本男子の名誉たり。殊に我家に於ては、未だ戦地に出でたる男子無し。依て此迄は我等夫婦は世上に向うて大に恥ずる処にして、既に清国と兵を交うるの際に当ては、実に我等夫婦は大に恥ずる事あり、為めに我等夫婦は一身を苦めて出兵者及び負傷者の為めに尽すのみならず、家計の及ぶ限りを以て実行せり。然るに其後北海道に来りて牧塲にのみ傾きたるも、然れども我国に於ける露国と兵を交うる事あらば、出でて其実行に当らんとの念を以て、為めに十分に寒気に耐うるの習慣を取りて止まず。然るに奇遇にも永山将軍に親くせり。同将軍は露国に向わん事を平生語れり。且つ予に同行をすすむる事ありしも今春病死せり。依て予は独行する事は難きのみならざるを密《ひそか》に思うのみなり。然るに又一が出征せば、予は残りて牧塲を保護すべきなり。依て又一が出征は実に我家の名誉なり、予が大満足なり。故に又一には牧塲の事は一切精神上に置かずして勇んで戦地に出ずべき事死を决すべきを示すのみにて、他は决するの必要無し、依て又一が名誉の戦死あらば、第二の又一を以て素願を貫くべきとして、更に将来を議せざるなりと决して、勇みて別れたり。
十月二日、寛は帰塲す。
寛が帰塲するや、片山氏は左の現状を告げて曰く、九月廿日頃より斃馬病馬多く、既に此迄に於て殊に有数なるの馬匹を二十余頭は斃れ、尚追々病馬あり、此上は如何なるべき乎、關川獣医の説によれば、病症不明にして治療に於けるも拠るべき処なしと、依て今後は如何なる事実に陥るか。とて片山夫婦は勿論高橋富藏も共に大に苦慮して、何れも落胆の極に至り、或は各自决する事ありて一身を退かんと欲するが如く、且つ精神沈欝して共に惨憺たり。其景况たるや言語に絶したり。然るに予は帰着後未だ草鞋ばきの儘なるも、其実况を見るに実に如何とも致すべからざる事たりしにて、予も同く大落胆するのみ、且つ言うべからざるの感に打れたり。然るに予は大に决する処あり、予が共に沈衰するに至らば如何なる塲合に陥らんか、依て今後に於ける如何なる事あるも、現状を回復するには大奮起せざるに於ては、我が牧塲は忽ち瓦解に帰せんや必せりと悟りて、一同に向い大声を以て第一に片山を呼び、其他を集めて叱※[#「口+它」、第3水準1−14−88]して曰く、我牧塲の現状を恐るる者あらば、直《ただち》に我牧塲を立退けよ、とて大に怒鳴りて衆に告げたり。且つ曰く、予は生活する間は决して此牧塲を退かざるなり、予は生活する間はココを退かずして、仮令《たとえ》一人にても止まりて牛馬の全斃を待つ。尚語を継ぎ曰く、全斃の後に至り斃馬の霊を弔わんと欲するなり、若《も》し幸にして一頭にても残るあらば後栄の方法を設くべし、我等夫婦が素願を貫くの道なりと信じて動かざるなり、幸にして種牡馬《たねうま》二頭は無事なり、依て此上に病馬あらば、十分に加療を施して死に至らしむるこそ、馬匹に対するの大義務たるべきなり、予は老
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