予は現今の喰料のみならず、貯うる事とも為し、或は諸方へ贈りものとして誇れり。此れ苦中の一楽なり。………当地にては、白米は都会の地に比すれば倍額たるを以て、未開地の新住居たる者は、殊に白米を喰するを減ずるを最も心懸《こころがく》るは最要方法たり。依ては年中絶えず第一には馬鈴薯《じゃがいも》を多く常喰する事にて、第二は諸種の豆類をも多く喰するを以て、馬鈴薯と豆類には足りて忌むべきを覚ゆるあり。其際に時々草餅を以て祝いの時や或は祭りの日など用ゆる時は、何《いず》れも大に喜んで喰するを以て、只都会の草餅の如く色と香とを以てするのみにては名のみなるも、喰料の助けとして多く蓬を用ゆる時は、味と共に喰料を助くる事最も多きなり。尚雪中に青物の乏しき時に此れを一同に喰せしむる時は、何れも大満足する者なり。実に僻地に於て隣家も遠くして平生他の人を見る事なく、亦語る事少く、他に心を慰むるもの無きにより、殊に傭人等《やといにんら》は日々馬鈴薯と豆類のみを多く喰するを楽《たのしみ》とするのみなるを以て、折には異る喰物《しょくもつ》を大に楽とするのみなり。実に未開地に於ける農家の喰料は、都会人士の知らざる処にして、其粗末なるも自然に慣れ、且つ労働多きに由《よ》りて消化機能も盛なるを以て、かかる喰料にても却《かえっ》て都下の人より健康を増加するのみならず、生出《せいしゅつ》する処の児輩《こら》は却て健康と怜悧《れいり》たるが如し。昔時《せきじ》に於ける山中鹿之介坂田公時も山家育ちなり。現世に於ては、高木兼寛《たかぎけんかん》三浦謹之助《みうらきんのすけ》両氏の如き、最も深山の内にて粗食にて生長せるも、医門の大家たり。ああ自然たるや平均を怠らざるを感ぜり。
当地の蕨は太さ拇指《ぼし》の如く、長さ二尺以上たる物なれば、殊に味《あじわい》あり。故に珍とすべし。実に採りて直《ただち》に木灰と熱湯とを以てアク出して喰するにも、或は其儘酢味噌或は醤油酢にて喰し、或は煮て喰する時は、最も味多し。亦此れを煮て干しあげて貯うる時は、何時にても湯でて水に一二日浸す時は、原形の如く太くなりて、味あり。此れも雪中には珍しく喰すべし。且つ大に喰料の助けとなるあり。或は貯え置き遠方に送りて大に珍重せらるる事あり。且当地にては、蕨と蓬とは多くして且つ太くて味あるを以て、日々採るも尽きざるなり。実に天の賜たるを覚えたり。昔時支那にて伯夷《はくい》叔齊《しゅくせい》の高潔を真似るにあらずして、創業費の乏きを補わんが為めにして、実に都下及び便利の地に住して衣喰《いしょく》するの人として决して知るべからざる事にして、かかる卑吝《ひりん》を記《き》するは或は耻ずるが如きも、然れども未開地に於て成効を方針とするに於ては、尚此れよりも衣喰に於ける幾多の困難に当るを以て、甘じて実行せざるべからず。予が此実際よりは更に困苦と粗喰とを取るは、未開地を開墾するの農家の本分たり。ああ創業の難《かた》いかな。
蕨蓬を採るの時は、樹皮の籠を用いたるも、然れども籠は歩行するにぶらぶらとして邪魔となり、或は小虫を払うにも不便なるを以て、更に木綿袋に換えたり。此れにて小虫を払うも手軽くなりて、大に便利となりて、蕨蓬を採るの量多きを喜びつつ、日々出でて採る事とせり。又小虫を払う事にも慣れて、成丈《なるたけ》小虫の集らぬ様に避け、或は払うて、左手《ゆんで》に蕨を握り、且つ小虫を払い、右手《めて》にて採る。左手に握り余る時は、袋に入れ、又袋に余りある時は叺に入れて、其重さ六七貫目以上に至る時は、其重さに耐うる事能わざるを以て帰るとするも、然れども小屋を離るる僅に六七丁なるも、然れども予が肩に負う事は旅行の際には二貫目ばかりの重きを以てするのみ。依て六七貫目以上の重量に至《いたっ》ては、強て耐忍する時は両肩は其重さにより圧《お》されて、其|疼《いた》みに耐《たゆ》る事能わざるを以て、其重さに困る事を知るも、蕨を採るの際には少しにても多く採らんと欲するに傾きて、知らず識らず多きに至れり。依て帰路は僅に六七丁なるも、然れども既に帰路に臨む時は、漸く十間以上を歩行する時は、重荷の為めに両肩疼み、強て忍ぶも呼吸は促迫《そくはく》し、尚忍ぶ時は涙と鼻汁とは多く流れ出で、両肩の疼み次第に増すを以て、両手を後《うしろ》にまわし叺の底を持ちあげて肩の重きを軽《かろ》くするなり。然るに肩は軽くなるも両手に久《ひさし》く耐《たう》る事能わず。依て亦両手の労を休まんとして両手を前にする時は、直《ただち》に叺を両方より結びたる藁縄に喉頭《のどくび》を押《おし》しめて呼吸|絶《たえ》なんとして痛みあり。依て亦両手にて藁縄を下方に引く時は、喉頭《こうとう》を押すは※[#「冫+咸」、197−3]ずるも尚肩の疼みは増加するのみならず、両肩は前後より圧迫せられたるを以て殆んど痲痺するが如きに至れり。全身も弱りて倒れんと欲し、耐忍する事能わずして草上に座して休息するに至れり。然るに休息するによりて全身は俄に安静なるに至れるが故に、小虫は此れにて四囲より群集して亦呼吸を妨げ、或は眼胞に向うて来りて払えども更に散るも亦来り尚群集を増加するによりて、此れにも耐忍する事能わずして、依て叺を脊負《せおい》て袋を前にかけて歩行するも前の如く困苦にて、僅に三十間或は四十間ばかりにて休息するが故に、六七町なるの帰路は一時間余を経《ふ》るに至れり。漸くにして小屋に帰りて直に横臥して言語する事も出来ざるに至れり。少時間は発熱するが如きを覚えて、精神も或は失するが如くにして休息す。少《すこし》く眠るが如くにして、漸く本心に復したるを待って、或は湯を呑み薯を食するに其|味《あじわい》の言うべからざるの美を覚えて、且つ元気つきて、夫《そ》れより採りたる蕨蓬を選びわけて煮るには半日《はんじつ》を費す。故に午前には出でて採り、午後には煮て干しあげる事に当れり。依て日々に終日労するには予が老体には最も労苦たり。午後には火をたき湯をわかすには、炎熱中には随分大なる困苦たり。故に日中には労に当り自らも大なる困苦を覚ゆるも、少しも屈せずして実行するには、恰《あだか》も地獄の苦みもかくやあらんと思うのみ。然れども予《あらかじ》め决する事たるを以て、生活する間は耐忍するとせり。然るに夜《よ》に入《い》り臥床《がしょう》に就く時は、熟眠して快き夢ありて、此れぞ極楽界たるを覚えたり。故に予は地獄と極楽とを一昼夜の間に於ける実地に於けるを感ぜり。依て自ら心に誇る処あり。ああ予は甞《かつ》て徳島に在るの時に於て、七十歳を以て古稀と自ら唱えて、僅少なる養老費あるを以て安堵して孫輩《まごら》の顔を眺めて楽みとし、衣食住の足れるを満足とする事に至るのみに止《とど》まりて、此牧塲を創起して意外の金員を消費しつつ、かかる困苦に当る事無くんば、かかる毎夜の極楽園裡の熟眠にて快楽ある夢をみる事もあらざるべき乎と熟考する時は、ああ予は大幸福と云うべき乎、或は大不幸と云うべきかと、自ら一種言うべからざるの感あり。然れども人たる者は生活間は苦んで国に対し亦世に対するが為めに労苦を実行するは此れ人たるの本分なりとする時は、或は不幸にはあらずして却て大幸福なりとすべく、予は大満足として、生活間に於て地獄と極楽との真味を最も能く知れるを以て大に誇る処也。
六月二十七日、土人イカイラン熊の子二頭を馬の脊《せな》に載せて持来《もちきた》れり。此際は蓬と蕨とを採るに忙《いそがし》く、日々干し面白く、働くには頗る困難なるも、創世記を読みて古今同く労苦と厄難と人害とは此れ創業の取るべきを感悟して最も満足せり。
此際には豆類|甘藍《きゃべーじ》等に兎と鼠と日中にても群を為して来り食するや実に驚くのみ。依て百方其害を防ぐに忙きも、其効を見る事能わざるなり。
七月三日、一奇遇あり。一官吏来り泊す。伴《ばん》氏と告ぐ。然るに予は先年|伴鐵太郎《ばんてつたろう》なる者を知れり。故に伴鐵太郎なる者を知るやと問うたり。然るに伴鐵太郎の二男なりと。予は甞《かつ》て長崎に在りし時、幕府の軍艦にて咸臨丸《かんりんまる》は長崎滞泊中は該艦に乗組の医官無くして、予は臨時傭として病者及び衛生上に関する事を取りたる事あり。其際伴氏は上等士官として艦長の代理たり。其際には最も親《したし》く且つ予と年齢も同《おなじ》きを以て最も親くせり。爾後政府も代り、数十年《すじゅうねん》を経て互に其音信を為せる事ありしも、然るに偶然に同氏と面会するに、かかる山間なる僻地に既往を伴氏の実子と語る事あるの奇遇を感じたり。
七日、三角測量吏吉村氏は※[#「陸」の「こざとへん」に代えて「冫」、201−1]別山に三角台を建《たつ》るが為めに来泊す。
此際道路新設にて、請負人堀内組病者多しとて、藤森彌吾《ふじもりやご》氏を以て頼み来れり。此れ我牧塲に向うて道路新設たるを以て、喜んで諾す。
此際土方人夫は逃げて北見に走る者多く続いて来り、予が一名にて留守するに当りても来り強て喰物を乞わるる事あり。或は川をわたり、或は裏口より突然に来《きた》るあり。或は跡より追い来るの人あり。其混雑なるは実に一種の世界たるを覚えたり。
八月廿七日、初雪あり。
九月十六日、堀内組病者診察として愛冠《あいかっぷ》に行くに、道を曲げて「ニオトマム」に馬匹を見んが為めに、「ヤエンオツク」を同行せり。王藏が番小屋に泊す。傍らに土人の小屋を立ててヤマベを捕るあり。其の小供は裸体にて山中をかけ走るを見る。ヤマベを釣り、味噌汁に五升芋とヤマベを入れて煮たる汁を喰す。最も妙味あり。且つ予は倒れたる枯木《こぼく》の丸太橋を彼方《かなた》此方《こなた》と小川をわたりながら馬匹の遊ぶを見るは実に言うべからざるの感ありて、恰も太古にはかくやらんと思われたり。殊に此地は水清く、南に平原ありて沙地《すなち》なり。北には緑葉《りょくよう》の密に針葉樹多く、其奥に高山ありて、為めに小虫は少《すくな》し。
十七日、雨ふるも強て発して愛冠に向う。四里間に家無きも、山間或は原野にして、シオポロ川の源に出で、川畔に傍《そ》うて降《くだ》る。終日暴雨なり。后《ご》三時愛冠に着す。全身は肌迄|湿《うるお》うたり。夜中《やちゅう》熟眠す。夜半独り覚めて「ニオトマム」の成効して所有権を得るの後を思うて、尚全身若がえりたるを覚えたり。ああ昨日《きのう》馬上にて全身の冷水に湿うるを忍びて、却て大に健康を増加するを覚えたり。
廿九日、寛は札幌に向うて発す。
[#ここから2字下げ]
牛十頭
馬九十五頭
畑地開墾四町
牧草地二十町
[#ここで字下げ終わり]
(三)
三十七年一月一日。
寛は札幌にありて牧塲を遥に祝す。
二月七日、又一帰塲す。
三月一日、瑞※[#「日+章」、第3水準1−85−37]北宝を舎飼《こやかい》とし、他の馬匹を昨暮《さくくれ》よりさる人に預けたり。然るに本年の大雪にて多くの馬匹を傷《いた》め、四十頭を斃《たお》したり。或は衰弱して流産するあり。此れ我家《わがいえ》の不注意と、預り人の怠りとに由るなり。
五月廿八日、寛は着塲せり。
六月十日、又一は札幌に向うて発す。………倉次《くらつぐ》氏より、アイ衰弱の報あり。
十二日、朝アイ死去せり。
老妻は渡道後は大に健康なりとて自ら畑に出で鍬を取り、蔬菜豆類を作り喰用の助けとして、一日《いちじつ》に一銭たりとも多く貯えて又一が手許に送り、牧塲の資本を増加せん事をとて熱心に働き、自らも大快楽なりとて喜び居れり。然るに昨年より心臓病に罹り、貧血となり、次第に一身に疲労を起し、且つ痩せて時々心動亢盛の発作あるも、然れども性として仕事好きにて、少しも休息せず。自らも牧塲の為めには一身を尽すは本より望む処なりとて、労苦を取りて休まず。移住後は滋養の為めとて在東京周助|妻《さい》より蒲焼及び鯛サワラ等の味噌漬其他舶来品の滋養物を絶えず送られて好みつつ喰するも、次第に衰弱せり。或は温泉を好むを以て、近所なる山鼻の温泉にも予は同行する事もあり。或は快く、或は発作し、自分にても此度《こんど》は迚《とて》
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