たるを忘るべからざるなり。尚此れより最も注意すべきは精神上に於ける無形の感動なり。抑《そもそも》人たる者は、肉体よりも無形たる精神上の或感動は忽ちにして凋衰《ちょうすい》を来《きた》す事多きのみならず、或は死に至る事あり。故に老人に対しては安慰と快楽とを与うるは壮年者の大責任たり。依て安慰、滋養品、運動との三《みつ》は、実に相待《あいまっ》てこそ長寿すべきを能く銘記あらんことを祈る。寛は幸にして此|三《みっつ》を以てするに怠らず。幸にして精神上の安慰と滋養品とは、能く家族の注意ありて、絶えず実行を持長《じちょう》せり。依て此際は自ら運動の為めに、或は紙張物、或は雪中歩行等にて運動を怠らず。且つ病者の来《きた》るを喜んで診療するを勤め、尚好む処の謡《うたい》と鼓とを以て楽《たのしみ》とせり。二月、亡妻の白骨を納むるの装飾ある外囲の箱を片山氏は作る。出来上るを以て、餅をつき霊前に供し、一同に饗したり。
十日、雪深くして歩行して河に至る事能わざるを以て、冷水灌漑に換うるに雪中に転ぶ。
三月、寛は種痘の為めに諸方に行く。
六月、寛は伏古《ふしこ》の地を検し、帰路落馬せり。然るに幸にして負傷する事無きも、然れども老体の負傷あらば或は大に恐れあるを感じたるを以て、今後は乗馬を止むるとせり。
此際は寛は蓬《よもぎ》蕨《わらび》を採るに野に出《いず》るも、亦他の人も蒔付に出るも、小虫は一昨年に比すれば半《なかば》を※[#「冫+咸」、223−7]じたり。昨年は大厄難たるを以て、小虫の事は深く心に置かざるも、本年は無事たるを以て、又々小虫の事を彼此と唱うるに至れり。
七月、寛は海水浴として釧路に向う。九日に帰塲す。
廿八日、又一出征の報あり。
此際に左《さ》の希望を企てたり。
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  積善社《せきぜんしゃ》趣意書
維昔《むかし》天孫豊葦原を鎮め給いしより、文化|東漸《とうぜん》し、今や北海|辺隅《へんぐう》に至る迄億兆|斉《ひと》しく至仁《じじん》の皇沢《こうたく》に浴せざるものなし。我が一家亦世々其恵を受け、祖先の勤功と父母の労苦とに由り今日あるを致せり。豈《あに》幸《さいわい》ならずや。されば我等|上《かみ》は国恩を感謝し、祖先の神霊を慰し、父母に孝養を厚うし、下《しも》は子孫の教育を厳にし、永遠なる幸福の基礎を定め、勤倹平和なる家庭と社会とを立てん事を謀らざるべからず。
然るに人生の複雑なる、安危交錯して、吾人の家庭と社会とに屡《しばしば》不測の惨禍を起して其調和を失うことを免れず。思うに人生の惨禍は、彼《か》の厄難屡来りて遂に貧に陥り、居《お》るに家無く、着るに衣無く、喰《くら》うに食無く、加うるに宿痾《しゅくあ》に侵され、或は軽蔑せられ、人生に望を失うものより甚《はなはだし》きはなからん。而《しか》して其由来する所を繹《たずぬ》れば、多くは自ら招くものなれど、事|茲《ここ》に至りては自ら其非を覚《さと》ると雖《いえ》ども、其非を改むる力なく、或は自暴自棄となりて益《ますます》悪事を為すあり、或は空《むなし》く悲歎して世を恨み人を怨むものあり。其惨状実に憐憫に堪えざるものあり。是れを救済し、其生活を安全ならしむるは、誠に人生の一大善根にして、固《もと》より容易の業にあらずと雖ども、吾人は其小を積み止まず遂に其大を致さむ事を勉《つと》めざる可《べ》からず。此《かく》の如くにして初めて吾人の目的に近《ちかづ》くことを得《う》べきなり。
我家《わがいえ》は北海道|十勝国《とかちのくに》中川|郡《ごおり》本別村《ぽんべつむら》字《あざ》斗満の僻地に牧塲を設置し、塲内に農家を移し、力行《りょっこう》自ら持し、仁愛人を助くることを特色とし、永遠の基礎を確定したる農牧村落を興し、以て此れに勤倹平和なる家庭と社会とを造らん事を期せり。コレ実に迂老《うろう》が至願《しがん》なりとす。迂老は幼にして貧、長じて医を学び、紀伊国《きいのくに》濱口梧陵翁《はまぐちごりょうおう》の愛護を受け、幸に一家を興すことを得たりと雖《いえども》、僅に一家を維持し得たるのみにして、世の救済については一毫《いちごう》も貢献する所なし。今に至り初めて大に悟る所あり。自ら顧《かえりみ》るときは不徳|※[#「菲/一」、226−2]才《ひさい》事《こと》志《こころざし》と違《たが》うこと多しと雖、而《しか》も寸善を積みて止まざるときは、何《いず》れの日|乎《か》必成《ひっせい》の期あるべきを信ずる事深し。乃《すなわ》ち先ずコレを我牧農の小村落に実施し、延《ひ》いて他に及ぼさんことを期し、コレを積善社と名づく。凡《およ》そ我社中の人には、労苦を甘んじ、費用を節し、日々若干金を貯えて、コレを共同の救済集金とし、以て社中に安心を与え、上《かみ》は国恩を感謝し、祖先の神霊を慰
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