体を忘《わすれ》て尚活溌に至らんと欲するなり、甞《かつ》て札幌に於ては又一が出兵するを以て、其不在中は全く独立自営を主とし、官馬を返納して一家計を細く立て、其及ぶ限を取らんと决したるも、ココに至《いたっ》ては官馬は斃るるも、我牧塲と共に予も死する迄として実行すべきを决したるを告げて、大に一同を責めたり。然るに片山初め一同は、予と同情を以て大奮励するとして、何《いず》れも予が説に伏して、初めて復常するに至れり。ああ此時に於て予も共に憂《うれい》に沈みて活気を失う事あらば、或は瓦解に至る事あらん乎。此れを熟考する時は、予が如き愚なるも平生潔白正直を取るの応報として、冥々裡《めいめいり》に於て予を恵みたるかを覚えたり。実に予が愚なるもかかる断乎《だんこ》たる説を立《たて》たるを感謝す。かかる数回《すかい》の厄難を重ねたるは、此れ天恵の厚き試験たるを感悟して、老朽に尚勇あらん事を怠らざるなり。
四日、斃馬一頭あり。
五日、今日《こんにち》に至り病馬全く無きに至れり。内祝として餅をつく。
今日に至り病馬無く、且つ一般の順序を得るを喜びて、
[#ここから1字下げ]
西風吹送野望清《せいふうふきおくるやぼうきよし》 万樹紅黄色更明《ばんじゅのこうこういろさらにあきらかなり》
扶杖草鞋移歩処《ふじょうそうあほをうつすのところ》 只聞山鳥与渓声《ただきくさんちょうとけいせいと》
[#ここで字下げ終わり]
此れより層一層の勤倹を守り、一身を苦境に置くに勇進せり。
十九日、瑞※[#「日+章」、第3水準1−85−37]号|種牡馬《たねおうま》の検査合格、十勝国一等の評あり。
十二月二十日、寛は七福の夢あり。

[#ここから2字下げ]
牛十四頭
馬六十七頭 今年斃馬五十六頭なり
[#ここで字下げ終わり]

      (四)

明治三十八年
一月一日
昨三十七年は我家《わがいえ》の大厄難たるも、幸にして漸く維持を得たるを以て、尚本年は最も正直と勤倹とを実行し且つ傭人《やといにん》等に成丈《なるたけ》便宜を与えん事を怠らず、更に土人及び近傍の農家にも幸福なる順序を得せしめん事に勤め。特に寛は七十六歳にして、昨年数回の病に罹るも、今日に至ては健《すこやか》にして、且つ本年は初めて牧塲の越年たるを以て、如何なる事あらんかと一同配慮するも、寒さにも耐えて、氷結の初めより暁夕毎《ぎょうせきごと》に堅氷《けんぴょう》を砕き、或は雪を踏んで一日《いちじつ》二回は習慣たる冷水灌漑を実行し止まざるはうれし。又一は入営兵の留主中《るすちゅう》たるも、先ず牧塲の無事に維持あるを謝すると、尚本年は無事に経過あらん事を祈ると共に、最も衣喰を初め仮令《たとい》僅少にても節約を守り、物品金員を貯えて牧塲費に当てて、又一が無事に帰るの後には、更に幾分かの助けたらん事を日夜怠らざるなり。
寛は昨秋《さくあき》より不消化の為めに悩む事あり。其後は喰慾は復するも、然れども大に喰量を※[#「冫+咸」、220−5]ずるのみならず、昨年迄は硬き喰料黍飯等を食するに好んで用いたりしに、其後は少《すこし》く硬きもの黍飯等を用うる時は、必ず胃痛下痢等を発する事となりたり。然るに一月三ヶ日間は、祝として黍餅を雑煮として喰したりしに、三日の夜大に胃痛にて苦《くるし》めり。依て四日間は粥汁《おもゆ》のみを喰して復常するを得たり。然れども昨年よりは、一身は大に平均を失うて起居動作には頗る困難を覚ゆるのみならず、記憶力及び考慮の上に於ても、大に※[#「冫+咸」、220−11]乏を覚うるの外に、消化器の機能も衰えて、少く硬き品を喰する時は、忽ち胃痛を発し嘔吐下痢する事ありて、総体に於ける衰弱するを覚えたり。乍去《さりながら》強《しい》て注意して運動を怠らず、更に喰料にも成丈|軟《やわらか》きものを選み、且つ量に於ても三分一を※[#「冫+咸」、221−2]ずるとして、夕飯は必ず後四時として粥を用い、菜は淡泊なるものを用うるとせり。此れにて次第に平均を得るも、尚注意して漸次に復常を得たり。然るに他処に出《いず》る時は、余儀無く喰するの時を過《あやま》り、或は硬き飯及び不消化物を食する時は、胃痛下痢を発するには殆んど困却せり。依て一日《いちじつ》の旅行には弁当を携え、一泊する時は前以て粥と時間を早くするとを頼むとして、注意を怠らざるのみ。依て次第に心身共に復常するを得たり。アア老境は実にアワレなり。依て世上の壮年者に忠告す。人たる者は必ずや盛衰の範囲を脱する事能わず。夫れ発育期を経て成熟期に至れば、続いて老衰期の来《きた》るを能く銘記せよ。老人たるや肉喰と絹服《けんふく》とにあらずんば養うに足らずとは、古きより訓《おしえ》たり。実に然り。喰物は歯にて噛む事能わず。着類も重きに耐えざるなり。故に壮年者は老人に対するの責任
前へ 次へ
全13ページ中11ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
関 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング