つ喰後は胃部には不快を覚えたるも、今や進んで喰するを好むも、然れども注意して少量にして尚空腹を覚ゆるを耐忍せり。且つ尊親夫婦は最も喰味《しょくみ》の調理に意を用いて、漸次《ぜんじ》に喰量を増し、粥をも少しずつを濃くせり。実に初めは極薄きを用い、追々其喰料を増加して漸次に復常《ふくじょう》し、書を読み、或は近傍を歩行するに至れり。然るに尊親夫婦は厚意を以て日々滋養品を交々《こもごも》に饗せらるるにより、漸次体力復したり。従うて精神上に於ても大に安堵ありて、日々尊徳翁の霊位を拝し、且つ遺訓と其遺れる二宮家庭を視、或は遺書を拝写して、一週間を経て体力復し、精神上の快活を得たり。為に欝を忘れ、喰気《しょくけ》は追々増加して、一層の快を覚えたるを以て、彼家《かのいえ》を去るに至れり。爾後は漸次に喰量を増し、食後の胃痛も無くして、心身復常せり。ああ此時に在りて誤りて空《むなし》く床上に在て只平臥する事あらば、或は心身共に衰弱するに至るべきなり。此れ泥水の内に在て空腹にて困苦するのみならず、過度の運動するが為めに喰機を振起し、為めに心身一大変動を起すに至り、尚尊徳翁の霊前に侍したるの感動により精神上の活溌の地に進み、更に尊親夫婦の厚意の切なる喰料を饗せられたるとを感じて、夫れより二宮家と数層の親睦を厚うせり。
同《おなじく》廿五日、寛は帰塲せり。
八月、土人イコサックル我牧塲内の熊害を防ぐ為めに居ると定めて、橋畔に小屋をかける。
三日、馬、熊害にかかる。
十五日、又一動員令下るの報あり。
二十日、寛は又一を見送るが為めに札幌に向う。
二十九日、寛は又一に面語す。
甞《かつ》て将来の事を語らんと欲したるも、然れども夫れは実に大なる予が迷いたるの事たるを悟れり。戦地に出《いず》るは、此れ死地に勇進するなり。殊に世界第一等たる強兵たるの露国に向うて為す事あるは、此れ日本男子の名誉たり。殊に我家に於ては、未だ戦地に出でたる男子無し。依て此迄は我等夫婦は世上に向うて大に恥ずる処にして、既に清国と兵を交うるの際に当ては、実に我等夫婦は大に恥ずる事あり、為めに我等夫婦は一身を苦めて出兵者及び負傷者の為めに尽すのみならず、家計の及ぶ限りを以て実行せり。然るに其後北海道に来りて牧塲にのみ傾きたるも、然れども我国に於ける露国と兵を交うる事あらば、出でて其実行に当らんとの念を以て、為めに十分に寒気に耐うるの習慣を取りて止まず。然るに奇遇にも永山将軍に親くせり。同将軍は露国に向わん事を平生語れり。且つ予に同行をすすむる事ありしも今春病死せり。依て予は独行する事は難きのみならざるを密《ひそか》に思うのみなり。然るに又一が出征せば、予は残りて牧塲を保護すべきなり。依て又一が出征は実に我家の名誉なり、予が大満足なり。故に又一には牧塲の事は一切精神上に置かずして勇んで戦地に出ずべき事死を决すべきを示すのみにて、他は决するの必要無し、依て又一が名誉の戦死あらば、第二の又一を以て素願を貫くべきとして、更に将来を議せざるなりと决して、勇みて別れたり。
十月二日、寛は帰塲す。
寛が帰塲するや、片山氏は左の現状を告げて曰く、九月廿日頃より斃馬病馬多く、既に此迄に於て殊に有数なるの馬匹を二十余頭は斃れ、尚追々病馬あり、此上は如何なるべき乎、關川獣医の説によれば、病症不明にして治療に於けるも拠るべき処なしと、依て今後は如何なる事実に陥るか。とて片山夫婦は勿論高橋富藏も共に大に苦慮して、何れも落胆の極に至り、或は各自决する事ありて一身を退かんと欲するが如く、且つ精神沈欝して共に惨憺たり。其景况たるや言語に絶したり。然るに予は帰着後未だ草鞋ばきの儘なるも、其実况を見るに実に如何とも致すべからざる事たりしにて、予も同く大落胆するのみ、且つ言うべからざるの感に打れたり。然るに予は大に决する処あり、予が共に沈衰するに至らば如何なる塲合に陥らんか、依て今後に於ける如何なる事あるも、現状を回復するには大奮起せざるに於ては、我が牧塲は忽ち瓦解に帰せんや必せりと悟りて、一同に向い大声を以て第一に片山を呼び、其他を集めて叱※[#「口+它」、第3水準1−14−88]して曰く、我牧塲の現状を恐るる者あらば、直《ただち》に我牧塲を立退けよ、とて大に怒鳴りて衆に告げたり。且つ曰く、予は生活する間は决して此牧塲を退かざるなり、予は生活する間はココを退かずして、仮令《たとえ》一人にても止まりて牛馬の全斃を待つ。尚語を継ぎ曰く、全斃の後に至り斃馬の霊を弔わんと欲するなり、若《も》し幸にして一頭にても残るあらば後栄の方法を設くべし、我等夫婦が素願を貫くの道なりと信じて動かざるなり、幸にして種牡馬《たねうま》二頭は無事なり、依て此上に病馬あらば、十分に加療を施して死に至らしむるこそ、馬匹に対するの大義務たるべきなり、予は老
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