来りて、諸共に、幾千代かけて駒を守らん。
秋の夜の、俤《おもかげ》うつる夢さめて、ねやにただきく川風の音。
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廿九日、餘作来塲して予を慰む。
寛は亡妻の病めるや既に不治にして必死たるべきを决定するを以て、死去後には憂いとは思わざるのみならず、亦忘れんと欲するも、如何《いかん》せん精神上に於ける言うべからざるの欝を以てし、且つ全身は次第に衰弱して喰料を※[#「冫+咸」、207−12]じ、動作困難にして、耳鳴|眩暈《めまい》して読書するにも更に何の感も無く、亦|喰物《しょくもつ》に味無く、只恍惚たるのみ。餘作にも語り合い、此儘にて空《むなし》く沈欝に陥る時は、或は如何に転変するに至らん乎と、自らも此れを案じ、餘作も共に慰めくれて、此際には精神上一大変化を実行して、此難関を一掃すべきの大奮励を要すべきを悟り、此れが為めには先ず例年暑中には海水浴を実行するを以て、此れに習い今回は温別《おんべつ》にて行い、且つ甞《かつ》て高岡氏より釧路支庁長に向うて予が為めに厚意を報ずるの一通あり、未だ釧路に出でざるを以て、此一通を釧路支庁長に呈し、且つ予が現状と牧塲の現状とを語るべし、更に甞て予が厚く信ずる処の二宮尊徳翁の霊位を藻岩村《もいわむら》二宮|尊親《そんしん》氏の家に至りて親《したし》く拝せん、且つ其遺訓をも拝聴し、及び遺書をも親く拝読せん事を切望し、尊親氏にも約する処あるを以て、此れを実行せば或は精神上に於けると転地療法とを二つながら全うせん事に决し、七月五日餘作同行にて発途。足寄橋にて別れて餘作が後貌《うしろすがた》を遥《はるか》に眺めて一層の脱力を覚えたるも、強《しい》て歩行し、漸く西村氏に泊す。此際に近藤味之助《こんどうあじのすけ》氏は学校に在勤して慰めくれたり。
然るに其後両日間は非常なる暴雨にて、休息し、晴れを待って発するに、センビリ川は増水して、漸く増人《ましびと》を以て渡る。其日|上徳《うえとく》氏に泊し、夫れより釧路に出でたるも、支庁長不在なるを以て書状を置き、帰路|白糠《しらぬか》軍馬補充部を一見して菅谷《すげや》氏に一泊し、温別にて海水に浴す。此際は汽車は浦幌《うらほろ》迄通ずるのみ。浦幌に泊し、豊頃《とよころ》に至る。前《ぜん》九時なり。此れより十勝川を渡り藻岩《もいわ》村に向わんとす。然るに昨日迄は満水にて渡船無きも、今日《こんにち》に至り漸く丸木舟にて渡すとて川向に着す。川には流材多く危険にして、泥水と腐草とは舟を妨げる事ありしなり。然るに藻岩村に行くの道路に向うて僅に四五十間行くに、昨日迄の洪水は去れども、瀦水《ちょすい》は膝を浸す。尚行くに従うて深きが如し。依て渡人《わたしびと》なる土人に其詳細を聴くに、道路は深くして腰を浸すべし、強《しい》て藻岩に行くには堤防を行き、夫より畑の中を通り、遥に見ゆる処の小屋に至り、夫れより間道を通らば藻岩に至ると。依て土人を傭《やとう》て、助けられて行くとせり。然るに泥水とゴミと流れ、木材多く、歩行困難にして或は倒れんとする事あり。依て土人に手をひかれて歩するに、深さ膝を過ぎ、泥水中に朽木《くちき》を踏みて既に危く倒れんと欲するあり。或は大《おおい》なる流材ありて、此れを跨《またが》りて越えるあり。或は畑の溝にて深き所ありて股を浸すあり。故に一歩毎に危く、片手は土人にひかれ、片手には倒れ木を握り、或は蝙蝠傘を杖として歩行するが為めに、胸迄泥水に浸されて、僅に脊負う所の風呂敷を浸さざるのみ。為めに或は立ながら休み、或は泥水中に倒れ木によりて休みて、数回倒れんとしたるを遁るるのみ。為めに呼吸促迫し、更に今朝《こんちょう》浦幌にて僅に粥二椀を喰したるままにて、豊頃にては昼飯《ひるはん》を喰せざるを以て、追々空腹を覚え、殊に歩行は遅くして、三時頃に至り彼の小屋に着したり。然るに泥水の中に三時間余在るを以て、寒くして震慄を覚えたり。依て農家に頼み、火にて暖まり、湯を飲みたるも空腹なるを以て食事を乞うも、黍飯なり、且つ硬くして喰する時は胃痛下痢を発する事を恐れて、忍んで藻岩村に向う。此間廿町ばかりなるも、泥水の溜まるあり、或は道路の破《いた》む処ありて歩行甚だ究するも、漸く二宮家に着するを得たり。然るに尊親氏は不在なり。妻君に面会を乞うに、未だ一面識無きのみならず、大に怪むが如し。此れは予が半体以上は泥水に汚《けが》れ、面色《かおいろ》も或は異様なりしなるべし。然れども強て尊親氏の面会を乞う。近隣にありて、帰宅す。予が現状を見て大に驚けり。依て其詳細を述ぶるに、俄に風呂をわかし、着類を洗いくれ、負う所の着類を換えて、初めて精神に復したり。尚乞うて粥を喰す。空腹のみならず疲労あるとて鶏卵を加えて饗せられたり。然るに過般来《かはんらい》は喰《しょく》味《あじ》無く、且
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