に》中川郡《なかがわぐん》本別村《ぽんべつむら》字《あざ》斗満《とまむ》
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関牧塲創業記事
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[#地から6字上げ]八十一老 白里 関寛誌す

      (一)

明治三十三年八月、又一は札幌農学校在学中シホホロ迄|来《きた》り、同地にて実地を検して且つ出願せんとす。
三十四年一月、又一は釧路を経て※[#「陸」の「こざとへん」に代えて「冫」、175−7]別《りくんべつ》に来《きた》る。
同年五月、斗満原野三百万坪余の貸付許可を得たり。
同年七月、又一農学校卒業す。直《ただち》に※[#「陸」の「こざとへん」に代えて「冫」、175−9]別に来る。
同年十月、藤森彌吾吉《ふじもりやごきち》に左《さ》の牛馬を追わせて愛冠《アイカップ》に至らしむ。
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牛八頭 馬廿一頭。
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明治三十五年三月十七日、片山八重藏夫婦|樽川《たるがわ》を発し、北宝号《ほくほうごう》、耕煙号《こうえんごう》、瑞※[#「日+章」、第3水準1−85−37]号《ずいしょうごう》、札幌号の四頭《しとう》を追うて、落合迄※[#「さんずい+氣」、第4水準2−79−6]車にて着。(中略)。廿五日藤森彌吾吉夫婦が牛馬を飼育するの愛冠の小屋に着し、同居して雪の溶けるを待つ。五月二十四日早朝発にて斗満に向う。愛冠には我小屋のみにて、夫《そ》れより斗満迄十二里間は更に人家無く、………其困難たるや言語筆紙の及ぶべからざるなり。………片山夫婦、藤森彌吾吉夫婦、西村仁三郎《にしむらにさぶろう》、谷利三郎《たにりさぶろう》、土人一名合せて七名、同夜九時※[#「陸」の「こざとへん」に代えて「冫」、176−9]別第五十四号にある測量出張員の仮りに用いたるの小屋ありて此れに着す。………四五日にして小屋の木材を切り取り、樹皮を剥ぎて屋根とし、且つ四囲を構《かこ》い、或《あるい》は敷きて座敷とせり。………夫れより開墾して六月十八日迄に一反半を開き、燕麦《からすむぎ》牧草を蒔付《まきつけ》たり。
廿七日、仮馬舎《かりうまや》に着手して、七月一|日《じつ》出来あがりたり。
七月一日、又一|着塲《ちゃくじょう》せり。
八月十日、寛《かん》は餘作《よさく》を同伴して初めて来塲す。寛は餘作が暑中休業にて五郎同行|来札《らいさつ》するを以て、五郎を母の許《もと》
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