て草木を養い、牛馬を肥《こや》すを方針とするのみ。成ると成らざるとは、只天命に在ると信ずるのみ。故に徳島を発する時は、其困苦と労働と粗喰《そしょく》と不自由と不潔とを以て、最下等の生活に当るの手初めとして、永く住み慣れたる旧宅を退き、隣地に在る穀物倉に莚《むしろ》を敷きたるままにて、鍋一つにて、飯も汁も炊き、碗二つにて最も不便極まる生活し一週間を経て、粗末なるを最も快しとして、旅行中にも此れを主張して、粗喰不潔の習慣を養成せり。故に北海道に着して、仮りに札幌区外の山鼻《やまばな》の畑《はた》の内に一戸を築き、最も粗暴なる生活を取り、且つ此迄《これまで》慣れざるの鎌と鍬とを取り、菜大根豆芋|等《とう》を手作《てさく》して喰料《しょくりょう》を補い、一銭にても牧塲費に貯えん事を日夜勤むるのみ。然るに甞《かつ》て成効して所有するの樽川村《たるがわむら》の地には、其年には風損《ふうそん》と霜害《そうがい》とにて半数の収益を※[#「冫+咸」、173−11]じたり。為に悲境を見る事あり、大《おおい》に失望して、更に粗喰と不自由とを以て勤めて其損害の幾分|乎《か》を償《つぐの》わんことを勤めたり。三十六年には主務なる又一《またいち》は一年志願兵となり、其不在中大雪に馬匹《ばひつ》の半数を斃《たお》したり。三十七年には相与《あいとも》に困苦に当るの老妻は死去せり。続いて又一は出征し、同秋に至り病馬多く、有数の馬匹を斃したり。為に予は一時病む事あるも、幸《さいわい》に復常《ふくじょう》せり。又一は三十九年五月|帰塲《きじょう》せり。予は三十七年迄は夏時《かじ》のみ牧塲に在るのみ。故に其概略を知るのみ。片山八重藏《かたやまやえぞう》夫婦の最初より今日迄の詳細を知るには及ばざるなり。依《よっ》て予が見聞する処の概略を記して、後年に至り幾分か創業の実况を知るが為ならんか。本《もと》より此れを世人に知らしむるにはあらざるなり。我子孫たる者に其創業の困難なるの一端を知らしめんと欲する婆心《ばしん》たるのみ。
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明治四十三年八月|※[#「陸」の「こざとへん」に代えて「冫」、174−10]別《りくんべつ》停車塲《すていしょん》開通の近き日
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[#地から6字上げ]八十一老 白里《はくり》 関寛《せきかん》誌《しる》す
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十勝国《とかちのく
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