りながら馬匹の遊ぶを見るは実に言うべからざるの感ありて、恰も太古にはかくやらんと思われたり。殊に此地は水清く、南に平原ありて沙地《すなち》なり。北には緑葉《りょくよう》の密に針葉樹多く、其奥に高山ありて、為めに小虫は少《すくな》し。
十七日、雨ふるも強て発して愛冠に向う。四里間に家無きも、山間或は原野にして、シオポロ川の源に出で、川畔に傍《そ》うて降《くだ》る。終日暴雨なり。后《ご》三時愛冠に着す。全身は肌迄|湿《うるお》うたり。夜中《やちゅう》熟眠す。夜半独り覚めて「ニオトマム」の成効して所有権を得るの後を思うて、尚全身若がえりたるを覚えたり。ああ昨日《きのう》馬上にて全身の冷水に湿うるを忍びて、却て大に健康を増加するを覚えたり。
廿九日、寛は札幌に向うて発す。
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牛十頭
馬九十五頭
畑地開墾四町
牧草地二十町
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      (三)

三十七年一月一日。
寛は札幌にありて牧塲を遥に祝す。
二月七日、又一帰塲す。
三月一日、瑞※[#「日+章」、第3水準1−85−37]北宝を舎飼《こやかい》とし、他の馬匹を昨暮《さくくれ》よりさる人に預けたり。然るに本年の大雪にて多くの馬匹を傷《いた》め、四十頭を斃《たお》したり。或は衰弱して流産するあり。此れ我家《わがいえ》の不注意と、預り人の怠りとに由るなり。
五月廿八日、寛は着塲せり。
六月十日、又一は札幌に向うて発す。………倉次《くらつぐ》氏より、アイ衰弱の報あり。
十二日、朝アイ死去せり。
老妻は渡道後は大に健康なりとて自ら畑に出で鍬を取り、蔬菜豆類を作り喰用の助けとして、一日《いちじつ》に一銭たりとも多く貯えて又一が手許に送り、牧塲の資本を増加せん事をとて熱心に働き、自らも大快楽なりとて喜び居れり。然るに昨年より心臓病に罹り、貧血となり、次第に一身に疲労を起し、且つ痩せて時々心動亢盛の発作あるも、然れども性として仕事好きにて、少しも休息せず。自らも牧塲の為めには一身を尽すは本より望む処なりとて、労苦を取りて休まず。移住後は滋養の為めとて在東京周助|妻《さい》より蒲焼及び鯛サワラ等の味噌漬其他舶来品の滋養物を絶えず送られて好みつつ喰するも、次第に衰弱せり。或は温泉を好むを以て、近所なる山鼻の温泉にも予は同行する事もあり。或は快く、或は発作し、自分にても此度《こんど》は迚《とて》
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