ば其説に承服する能《あたは》ざるなり。素《もと》より戯曲には種々の規則あり、罪過を以つて唯一の規則となすは不可なるべしと雖《いへど》も、之《これ》が為めに罪過は不用なりと言ふあらば亦《ま》た大《おほい》に不可なるが如し。何となれば人物は動力(源因)なくして偶然不幸悲惨の境界に陥るものなければなり。歴史家が偶然の出来事は世に存在せずと言ふも是れ吾人と同一の意見に出づるものならん。故《ゆゑ》に吾人は罪過を以ツて重要なる戯曲規則の一に数へんと欲す。
戯曲は啻《たゞ》に不幸悲惨に終るもののみならず、又素志を全うして幸福嬉楽に終る者もあり。然るにアリストテレスは何が故に只《たゞ》罪過をのみ説いて歓喜戯曲《コムメヂー》の「歓喜に終る源因」に就《つい》て説くことなかりしや。是れ大なる由縁あり。当時|希臘《ギリシヤ》に於ては悲哀戯曲《トラゲヂー》のみを貴重し、トラゲヂーと言へばあらゆる戯曲の別名の如くなりをりて、悲哀戯曲外に戯曲なしと思惟《しゐ》するの傾向ありたり。故にアリストテレスが戯曲論を立つるも専《もつ》ぱら悲哀戯曲に就て言へるなり。若《も》し彼をして歓喜戯曲《コムメヂー》、通常戯曲《シヤウスピール》等も悲哀戯曲と同じく尊重せらるゝ現代に在《あ》らしめば、彼は決ツして悲哀戯曲のみに通用する「罪過」の語を用ひずして、必ず一般に通用する他語を用ひしに相違なし。故に近世の詩学家は罪過の語の代りに衝突「コンフリクト」の語を用ふ。而《しか》して曰《い》ふ、トラゲヂーの出来事は人物が其力量識見徳行の他に超抜するにも係《かゝ》はらず、不幸の末路に終へしむる所の衝突《コンフリクト》を有し、コムメヂーの出来事は素志を全うし幸福嬉楽の境に赴《おもむ》かしむる所の衝突《コンフリクト》を有すと。アヽ世に人物に対する衝突なきの出来事ある乎《か》。若し之れありとせば、ソは最早《もはや》出来事《エルアイグニス》とは称すべからざるなり。是《これ》を以つて之を視《み》れば、罪過も衝突《コンフリクト》も行為結果の動力を意味するに至つては同一なり。只意義に広狭の差あるのみ。されば罪過説を排斥するものは衝突説をも排斥するものなり。アリストテレスの罪過を広意に敷延すれば即ち結果に対する原因なり、末路に対する伏線なり(復《ま》た其不幸に終ると幸福に終るとを問はず)。試みに鴎外漁史に問はん、漁史は結果のみを写して原因を
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