写さざる戯曲を称して猶《な》ほ良好なるものと謂《い》ふ乎、原因に注目する者を称して猶ほ偏聴の誚を免れざるものとなす乎。
又飜つて小説を見るに、苟《いやし》くも小説の名を下し得べき小説は如何《いか》なるものと雖も、悉《こと/″\》く人物の意思と気質とに出づる行為、及び其結果より成立せざるはなし。人物の一枯一栄一窮一達は総《すべ》て其行為の結果なり。故に行為は結果に対する源因となるなり。禍に罹《かゝ》るも福を招くも其《その》源《げん》を尋ぬれば、行為は明然之が因《いん》をなす。別言すれば結果は源因の写影たるに外ならず。此源因は即ち広意に於ける罪過と同一意義なり。(以下に用ふる罪過の語は衝突《コンフリクト》と同一なりと思ひ玉へ)世に偶然の出来事なし、豈《あ》に罪過なきの結果あらんや。手を相場に下して一攫千金《いつくわくせんきん》の利を得るも、志士仁人が不幸数奇なることあるも、悪人栄えて善人|亡《ほろ》ぶることあるも、尊氏《たかうぢ》が征夷《せいい》大将軍となるも、正成《まさしげ》が湊川《みなとがは》に戦死するも、総て何処《いづこ》にか罪過なくんばあらず。罪過なくんば結果なし。結果なくんば行為なし。行為なくんば意思なし気質なし。意思なく気質なくんば既に人物なし。人物なくして誰か小説を作るを得ん。鴎外、山口の二学士が小説に罪過説を応用すべからずと云ふは、横から見るも縦から見るも解すべからざる謬見《びうけん》と謂はざるを得ず。何となれば二学士は行為なき、人物なきの小説を作れと言ふものと一般なればなり。否《しか》らざれば二氏は木偶泥塑を以ツて完全なる小説を作れと命ずる者と一般なり。吾人は二氏が難きを人に責《せむ》るの酷なるに驚く。
二氏は如何にして此《かく》の如き謬見を抱《いだ》きしや。吾人|熟々《つら/\》二氏の意の在《あ》る処《ところ》を察して稍々《やゝ》其由来を知るを得たり。蓋《けだ》し二氏は罪過説に拘泥《こうでい》する時は命数戯曲、命数小説の弊に陥るを憂ふる者ならん。何となれば罪過なる者は主人公其人と運命(運命の極弊は命数)との争ひを以て発表する者なればなり。若し果して然らば二氏は運命を適当に解釈するを知らざる者なり。運命とは神意に出《いづ》るものにもあらず、天命にもあらず、怪異にもあらず。古昔|希臘《ギリシヤ》人は以為《おもへ》らく、人智の得て思議すべからざる者是れ
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