にも後の思想とは異なつて――全體としての死したる人自らが、生きてゐた時乃至死んだ時そのままの身體そのままの姿で生を續ける。ただ場合によつては――今日もなほ幽靈を信ずる人々の考へる如く――或は影の如く或は煙の如く輕く稀薄となるといふ相違があるのみである。云々(二)。
 さてかくの如きは、自然人又は原始人と呼ばるべき諸民族の單純素朴なる考へ方として根源的體驗の最も忠實なる反映であると無造作に解釋され易い。かかる諸民族の日常意識が自然的と呼ばれる根源的體驗によつて最も深く色附けられたものであり、そこでは文化的意識は未だ力強き徹底的なる發現を見ず、從つて彼等の文化の内容はなほ幼稚低級なる段階に留まつてゐるは疑ふべくもないが、それにも拘らず、彼等はすでに一定の文化を有する文化人である。根源的體驗に關する省察は文化人としての彼等によつて行はれたものであり、從つてその省察及びそれの表現としての解釋の當否は、彼等の一般的日常意識が比較的原始的根源的體驗の色彩を濃厚に示す故をもつて無造作に解決せらるべきではない。すなはち、彼等の死の觀念はむしろ彼等の文化意識より來つたものであり、幼稚にせよ低級にせよ、彼等が文化の段階に立つことを極めて明かに示すのである。生のみを思つて死を思はぬ點においては、彼等は近世の大思想家スピノーザと全く同じ立場に立つのである。ただ後者が文化主義を深き自己省察をもつて思想的に徹底せしめたとは異なつて、彼等は單純に無邪氣にその同じ立場に生きてゐるの相違があるのみである。文化的生においては、有のみあつて無がない如く、又時間性の觀點よりいへば現在が過去をも將來をも併呑する如く、生のみあつて死はないのである。從つて死の存在と意義とに或る程度まで目覺めた場合には、死は實は生の一種の形に過ぎぬこととなる。死をもつて魂と身體との分離となす思想は、アニミズムの影響の下に立つたローデ(Rohde)が考へたやうに(三)、一方原始民族と他方プラトンとを繋ぐ共通の點であるのでなく――雲泥といつてもなほ言葉の足らぬほどの思想上の隔り、殊に比較を絶する後者の自己省察の深さは今は考慮に入れぬとしても――むしろ單に死の本質に關する思想においてさへ、兩者の間に可なり大なる不一致が存在することは近時の研究によつて明かにされたことであるに相違ないが(四)、それにも拘らず、死を生の一形態と看做す點においては兩者は全く一致する。しかしてその一致點は文化主義そのものの必然的發露に外ならぬ。現在に耽溺して足元の地盤が絶えず動搖し絶えず非存在へと消え行くに氣附かぬ文化人は、死の實相を正面より見詰めるを怠つて乃至嫌つて、死を生の一形態と見る幻覺に知的乃至情的滿足を貪る。あらゆる時代あらゆる民族あらゆる社會層あらゆる文化類型を通じて、この思想が多種多樣の形態において――例へば、或は靈魂の不死性乃至は輪※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]の思想として、或は賞罰の觀念と結び附きつつ、或は解脱救濟の一契機をなしつつ、或は單純素朴なる信念として、或は巧緻深遠なる思辨として――實に汎人類的にあまねく弘まり行渡つてゐる事實は、それが人間性の本質にいかに深く根ざしてゐるかを語るであらう。惜しいかな、かかる思想は、支へる胴體も養ふ臟腑もなしにただ頭惱だけとして生存しようとする人間にも比ぶべき、甚しき誤謬であり、場合によつては、自己欺瞞でさへあるのである。
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(一) Ethica, IV, 67.
(二) 次の諸書參看。〔Ankermann: Die Religion der Natur−vo:lker (Bertholet−Lehmann: Lehrbuch der Religionsgeschichte. Bd. I) ――Preuss: Tod und Unsterblichkeit im Glauben der Naturvo:lker (1930) . ――〕 Walter Otto: Die Manen (1923) . この最後の書は歴史前時代のギリシア人の死者の觀念に關して Rohde の解釋に修正を加へた功績を有する。なほ 〔Le'vy−Bruhl: Les fonctions mentals dans les socie'te's infe'xieurs. P. 416 (Engl. Tr. P. 353)〕 參看。
(三) Erwin Rohde: Psyche.
(四) W. Otto: Die Manen. 參看。
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        二〇

 要するに、死に對する關心もそれの理解も否それの觀念そのものさへも、文化の段階に昇ることによつてはじめて可能にされる事柄ではあるが、しかもそこに留まつただけでは死の實相は到底捉へ難い。嚴密にいへば、文化の世界には生のみあつて死は無いのである。かくて吾々は事柄の更に深き根源に考察を向け、文化的生の基體である自然的生へ時間性の根源的體驗へと遡るべく促される。死は直接的體驗の事柄ではないが、それにも拘らず、時間性の直接的體驗にまで自己省察を向けることによつて、はじめて自らの意味をもつ特異の獨立の事柄として成立ち又理解されるのである。
 死は自然的時間性、時の不可逆性、の徹底化である。主體のその都度の現在だけではなく、全き現在の即ち生の全體の壞滅、無への沒入が死である。統一的全體的主體にとつて存在の維持者である實在的他者との交渉が斷たれ、從つて根源的意義における將來が無くなることが死である。對手を失つた主體、將來の無き生、これが死である。吾々はすでに、根源的時間性において現在が過去へと存在を失ひつつ、しかも將來より補給されるを見た。絶えず非存在へと過ぎ去りつつしかもなほ現在が成立つのは、將來があり他者との交渉があるからである。存在の補給路が全く斷たれたる現在、全く孤獨に陷つた主體、去るあるのみ待つもの來るものの全く無くなつた生は滅びる外はない。主體のかくの如き全面的徹底的壞滅こそ死である。
 かくの如き本質を有する死は、すでに述べた如く、もとより直接的體驗の事柄ではない。それは全體としての自己を理解しようとする主體が、自己の存在の本質的性格として感得する事柄である。吾々が生きる限り死には出會はぬゆゑ、死はいつも可能性としてのみ存在する。しかもそれが主體の自己實現の一契機として主體の自由に基づく可能性ではなく、實在的他者との關係交渉に根源を有する可能性である點に、それの本質的特徴は存する。時間性はすでに主體自らの好むと好まぬとに關はりなくそれの存在を支配する必然的運命的現象であつた。時間性の徹底化である死においては、この必然的運命性も亦徹底的となる。それは主體の最深最奧の本質に喰込み、それの全き存在と自己とを徹底的に破壞するいかにするも遁がれ難き運命の意義を擔ひつつ、主體の本質的性格を形作る可能性として傾向として與へられるが故に、理解する外なき事柄覺悟する外なき運命である。又かくの如きものであるが故に、或は理論的に又は實踐的に、或は解釋により又は行爲により、囘避し得る事柄であるかの如き態度を取る餘地は殘されてゐる。死は時間性の徹底化として根源的體驗に根ざしながら、文化的生まで昇つてはじめて成立つ事柄である點に、必然性と可能性とを一に合するそれの複雜難解なる本質は存するのである。しかしながら一たび根源的體驗まで遡つてそれの實相を見究め得たならば、それは單純に容易に人間性の最も意味深き最も本質的なる性格として理解されるであらう。人間の存在は死への存在である。現在を樂しみつつ生の甘き夢に耽る人間主義の人間に覺醒を促しつつ、わが正體わが眞の現實を知らしめるのが死の意義である。人間性に醉ふ人間にとつては無も有の一種に過ぎなかつた。かれに有は無に打勝ち得ぬこと、存在は非存在において超え難き限界に達すること、を教へて生の嚴肅なる實相に目覺めしめるものは、「死を忘るな」の自戒の言葉である。スピノーザの智者は生のみを思つたが、眞の智者は生と共に必ず死を思ふであらう。
 以上の如く文化的主體が自然的生の主體を自己の根源として理解する處に死の意義は開示される。それ故、すでにしばしば、或は客觀的實在世界の認識並びに主體の自己認識に關して、或は文化的時間性に關して、それらの成立の根據として明かにされた、反省の主體と體驗のそれとの同一性、先驗的同一性、はここに死の觀念に關しても、理解の基本的制約をなすことが明かであらう。しかもここではその同一性は最も徹底的なる形において承認を要求する。自然的生及びそれの自己主張が人間的生のあらゆる形態あらゆる現象の基體乃至根源であることは、他の場合にも勿論看取される事柄であるが、ここにおいてほど痛切に強烈に自覺を促しつつ生の中心に迫り來る處はないであらう。
 死は時間性の徹底化である。從つて時間性の克服は死のそれにおいてはじめて完きを得、逆に又死の克服は時間性のそれによつてはじめて成就される。ここよりして次の事どもが歸結される。第一。時間性及びそれに基づくこの世の苦惱はややもすれば死そのものによつて克服されるが如く思はれ易い。死をもつて生の一種の形とする思想がいかに根強く人心を支配しをるかを思へば、この考へ方感じ方が通俗的に揮ふ勢力は首肯かれる。しかしながらそれが全く錯覺に過ぎぬことは上の論述によつてすでに明かにされた。尤もその思想の一理あるは許容すべきであらう。死は他者よりの離脱として主體にとつてはたしかにこの世を去るを意味する。死は或る意味においてはたしかに時間性及びこの世の苦惱よりの解脱である。ただ惜しむべきはその解脱は同時に解脱する筈の主體の壞滅を意味することである。世の惱みは主體の自己主張の抑壓否定に基づくとすれば、死は却つてこの世の惱みの徹底化といふべきである。ここより觀れば、世の惱みこそむしろ死の前兆又は先驅と解すべきであらう。
 第二。吾々は時間性の克服である永遠性は同時に死の克服でなければならぬこと、又死の克服は永遠としてのみ成就されることを知る。生の繼續に過ぎぬ不死性の觀念が、永遠性の又從つて死の克服の要求に副はぬことは、すでにここよりしても明かである。永遠性の正しき理解を求むべき方向もすでにここに指し示されてゐる。主體の現在が將來を失ふことが死であるならば、永遠は過去が無く將來のみある現在である。それと聯關して、死は他者よりの完き離脱であるに反し、永遠は他者との生の完全なる共同でなければならぬ。孤獨は死を意味し、永遠は愛としてのみ成立つのである。
[#改ページ]

    第五章 不死性と無終極性

        二一

 時間性そのものの範圍において、すでにそれの或る程度の克服が行はれることは、吾々がしばしば説いた所である。すべての時間性の根であり源である自然的時間性は文化的時間性において變貌を遂げるが、その變貌は修正を意味したのである。文化的生の時間的性格は現在に存する。それの支配の及ぶ限り有と存在とあるのみである。根源的體驗においては存在の墓であつた過去はここでは却つて存在の母胎となる。この時間性の世界に屬する限り何ものも滅びることを知らぬ。主體は現在を樂しみ將來を望みつつ自己の實現に生きる。
 しかしながら、この活動と享樂と希望との美しき世界も根柢においては實は砂上に築かれたる玩具普請に過ぎぬ。一切を擔ひ支へる筈の現在は絶えず壞滅の中に葬り去られる。又それは將來に、從つて他者に、依存する存在である。時間性のこの性格の徹底化こそ死である。死の運命性において、必然性乃至強制性を兼ねたるそれの可能性において、人間性の深刻なる悲劇は存する。時間性の克服は死のそれでなければならぬ。永遠性は不死性として成立たねばならぬ。
 「不死性」(Unsterblichkeit)はプラトン以來「靈魂」の不死性乃至不滅性として知られてゐる。しかるにこの觀念は、古き榮えある傳統にも拘らず、甚しく意義の明瞭を缺き、殆ど學問的使用に耐へぬ嫌ひがある。これは一つには、
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