來よう。根源的空間性は根源的體驗における實在的他者性である。あらゆる他者性はここに根源を有する。反省の段階において客體の遊離が行はれるとともに、そこに客體的乃至觀念的他者性は成立つ。客體の世界が一部分の復歸を行ひ、こなたの主體を去つたままの姿でかなたの實在者即ち實在的他者に歸屬せしめられるとともに成立つ他者性こそ、客觀的實在世界の基本的秩序としての客觀的空間である。かくの如くであるとすれば、今客觀的空間より實在性を指し示す特徴を取除けば、殘るは客體的に顯はとなつた他者性、客體内容同志の間に成立つ純粹の他者性以外にはないであらう。このことはそのまま客觀的時間にも當嵌まる。そこに支配する他者性は單に一と他とは異なること互に他であることに盡きる。すなはち、「今」即ち時點の連續においては、一つの「今」を他の「今」より區別し得るものは内容的の何ものでもない。從つて一つの今が、最後のものとして、それに續く他の今の存在を拒む特殊の資格をもつことは、はじめより否まれる。かかる連續においては限界といふものは存在しない。すなはち始めも終りもあり得ない。尤も時は一定の方向を取つて進むことを特徴としてゐる故、空間の場合と異なつて、終りの無いことが特に際立つた本質的特徴となる。これが即ち時の(即ち客觀的時間の)「無終極性」(Endlosigkeit)である。更に又次の點も考慮に値ひする。客體の面において觀念的他者性の支配する處においては、存在以外には何ものも無い。有と區別して無について語る場合、その無は一種の有即ち異なつた有り方に過ぎぬのである。これを時に當嵌めて言ひ換へれば、客觀的時間においては現在あるのみ、有即ち現在に對して無は單に他の有即ち他の現在に過ぎぬのである。すなはち、そこには存在從つて現在の連續あるのみ、この連續に斷絶を命ずるであらう眞の非存在はそこには見出されないのである。實在的他者性のある處には、一が他を滅ぼすこと有が無に歸することがあつた。そこには嚴密の意味における無が成立した。そこでは現在は過去となることによつて終極に達したのである。無終極性こそ客觀的時間の最も著しき特徴といふべきである。
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(一) Eddington: The Nature of the physical World. P. 63 ff. 參看。
(二) Physica, 219 a.
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        一七

 ここに時間性の或る程度の克服のあることは否むべくもない。それどころか、客觀的時間の無終極性は昔より廣く、殊に通俗的には一般に、永遠性そのものと看做され時間性の完き克服であるかのやうに考へられた。しかしこれは甚しき誤解である。客觀的時間は生きられる時ではなく觀られる時であり、從つてそこでは主體は舞臺の前面より姿を消すに相違ないが、しかもいはば黒幕に隱れて依然存在を續ける。認識する主體は依然活動する主體、しかも實在する世界の中にあつてそれと交渉を保ちつつ活動する主體である。そこに主體と客觀的時間との關係交渉は成立たねばならぬ。この觀點よりみて、時の無終極性、終りなき果てしなき時、は何を意味するであらうか。それは活動の無意味を意味するのである。存在と存在との果てしなき連續は、存在がいつまでも充實と完成とに達せぬこと、主體の自己實現がいつまでも志を遂げ得ぬことを語る外はないのである。一つの存在より他の存在に移ることによつて主體はいつも同じく存在に出會ふ。しかもその存在はいつも同じく可能的存在に過ぎず、可能性の現實化はいづこにも進歩發展を見ず、いつまでも成就すべくもない。直線的存在は畢竟中心の無き存在である。すでに述べたる如く、客體は主體を中心にもち、それを外へ表はし出すべき任務を遂げることによつてはじめて有意味なるものとして成立つのであるが、ここにはむしろ反對に、實現し表現すべき何の中心も自己もあり得ぬ單なる存在の等質的連續、果てしなき直線的連續があるのみである。
 以上は自然的時間性における根源まで遡ることによつて一層明瞭となるであらう。根源的體驗においては、現在は從つて存在はいつも無くなり行き滅び行く存在である。生ずるものは滅び來るものは去る。いづれも不安定的斷片的缺乏的である。これが時間性の根源的性格である。しかもこの性格が客體面に現はれたものが無終極性である。各の存在は無くなる缺ける落着かぬ存在であるが故に他の存在を要求し、かくて次へ次へとその要求は引繼がれ終極する所がないのである。言ひ換へれば、根源的時間性において有は無と離し難き聯關を保つが故に、客觀的時間において存在は單に他であることによつてのみ區別される次の存在へと移り行くのである。自然的時間性においては、存在は嚴密の意味における非存在によつて境ひされる。有は無と離すべからずに結ばれるが、その無は有の外にある。これは、後に説くであらう如く、克服されたる契機として無を内に含む永遠的現在と異なる時間的可滅的現在の特徴であつて、それによつて現在及び存在はいつも過去及び非存在に取つて替はられるのである。有と無とのかくの如き聯關の客體面に現はれたるものが、有と有との極みなき連續である。すでにしばしば説いた如く、文化的時間從つて客觀的時間においては、現在が一切を含み時は現在に盡きる。そこには非存在や無は嚴密には存在せず、それはむしろ異なる存在異なる有の別名に過ぎぬ。有の外にあつてそれに境ひする無は、ここでは有の外にありそれと外面的に接續する他の有に外ならぬ。本質的に非存在と過去とに落込む存在と現在とは、ここでは本質的に他の存在他の現在へと連らなる存在及び現在となるのである。時間性の根源的性格をなす存在の可滅性・無常性・不安定性・斷片性・不完成性は、かくの如くにして果てしなき連續即ち無終極性として發現を遂げる。無に境ひする有に代へるのに有に連らなる有を以つてする點において、しかしてこれが體驗より觀念への轉向を意味する點において、根源的時間性の或る程度の超越は認められるが、他方においては、その都度の出來事であつた時間性の缺陷を無際限に連續する出來事として恆久化する點において、却つて、その缺陷の引伸ばしともなるであらう。ヘーゲルが無終極性を「惡しき無限性」と呼んだのに傚へば、終りなき果てしなき客觀的時間は「惡しき永遠性」と呼び得るであらうが、時間性の克服であるかの如く見えて實は却つてそれの缺陷の延長である點を思へば、「僞りの永遠性」の名が或は一層當を得たものでもあらうか。
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    第四章 死

        一八

 死について考へ殊に死の必然性を知り死を覺悟することは人間の貴き特權と考へられる。死の意義ほど自己について深く省察する人にとつて重大なる問題は少いであらう。しかもそれは、客觀的乃至自然的現象としての死が同じく客觀的乃至自然的現象としての生に對していかなる關係に立つか、根本的にいつて、かかる現象としての死ははたして又いかにして必然的事實として承認されるか、などの問題と混同せらるべきでない。假りにかかる必然性が理論的確實性を得たとしても、この意味における必然的事實としての死は、單に理論的に從つて冷靜に認識される客體であるに止まり、吾々が自ら生きる生の意義に對しては、原理的には、沒交渉である。死の事實の客觀的觀察、特に又すべて生きるものは(從つて吾も)死なねばならぬといふ客觀的認識は、死の意義の自覺がすでに或る程度まで明かに存在する處においては、それの確實性を強めるに役立ち得るであらう。さうでない場合には、外部より觀察されたる死の現象が、吾々自らにとつて重大關心事である死といかなる程度において同一であるかさへ明かでない。場合によつては、かかる觀察や認識は死の現象を外面化することによつて、無造作なる早合點の自信や氣安めを促し、かくてむしろ死の内面的理解の妨碍とさへなり得るであらう。プラトン以來ギリシア哲學を風靡し從つて中世及び近世の哲學や宗教思想に深き影響を及ぼした死の觀念――精神(靈魂)の身體よりの分離としてそれを定義しようとする死の觀念――はこのことの顯著なる實例に數へらるべきであらう。
 かくの如き客觀主義の立場に立つてギリシアのエピクロス(Epikouros)は死への關心の愚を證明しようとした(一)。死は畢竟身體と精神とを組成する原子が分離乃至分散することに外ならぬ。兩者の結合が續く間從つて吾々が存在する間は死は來らず、死が來つた時は吾々はもはや無い。生きる者にとつては死は無く、死したる者は自らすでに存在しない。知覺の能力あつてこそ「よし」「あし」も意味があらうが、死はあらゆる知覺の喪失に外ならぬ。云々と。さて、死の本質と意義とが、客觀的に觀察認識される一事實、客觀的實在世界に屬する一現象、であることに主として存し乃至盡きるとしたならば、天變地異に出會ふと同じ意味においては吾々が自らの死に出會ふことのないのはいふまでもない。出會ふことが無いと知りつつ、しかもそれに出會ふことを人生の不幸として忌み又は恐れるならば、これに優る愚はあり得ぬであらう。――しかしながら、かくの如くに死を見るは全く誤つた觀點を取るものである。吾々が死を嫌ひ又は恐れるのは、死と稱する一種の客觀的出來事に出會ふを嫌ひ又は恐れるのではない。むしろ吾々自らが無くなることを、言ひ換へれば、何もの何事にも、從つて客觀的出來事としての死にも、出會はぬやうになることを嫌ひ又は恐れるのである。
 尤も死は直接的體驗の事柄ではない。そのことを示唆する限りにおいてはエピクロスの言は正しい。時間性は直接に體驗される自然的生の構造である。しかしながら、現在がいつも無に歸することと死とは決して同一でない。自然的生においては、主體はその都度の現在に生きつつ、その現在がその都度滅び行くを體驗するのみである。しかるに死は過去より將來を通じて同一なる主體從つてあらゆる時を包括する現在の消滅を意味する。これは文化的時間性の段階においてはじめて可能となる事柄である。主體が文化的生にまで昇り、自己の統一性全體性の觀念が生じてはじめて死は問題となる。自然的生においてはその都度の現在はあるも一切を包括する現在は無い。かかる現在は客體面において又客體間の聯關を通じて自己を表現する主體を俟つてはじめて成立する。
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(一) Diogenes Laertius, X, 124 seqq. ―― Lucretius Carus: De rerum natura, III, 830 seqq. 參看。
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        一九

 しかしながら、すでにしばしば論じた如く、文化的意識に對しては嚴密の意味における無は存在しない。それ故、一切を包括する現在に浸つたまま遡つて生の根源を究めるを怠る文化主義にとつては、無と同樣嚴密の意味における死も實はあり得ぬ事柄である。「自由なる人(智者達人)は死を思ふこと何事よりも稀れである、死ではなく生の省察こそかれの智である」といふスピノーザの言は、徹底したる文化意識の心の底からの聲であらう(一)。近時の民俗學は興味ある一事實を明かにした。それは未開の原始民族の間においては死の觀念が極めて稀薄なことである。原始人にとつては生きる者が飽くまでも生きるといふことは自明の事柄であり、生が死をもつて終らねばならぬといふことはむしろ不可解である。特に惠まれた個人ばかりでなく全き種族が生きながらに樂土に移されるといふ思想は決してめづらしくない。死こそ却つて不自然であり特に説明を要する事柄なのである。死の必然性が心に刻み込まれるに至つた後も、彼等は死を生の終極とは考へず、むしろ單に異なつた形における生の延長と考へる。死は彼等にとつては特殊の生き方に過ぎぬ。又その生き方に關する考へ方も生と死との區別を最大限において拭ひ去る如きものである。すなはち、彼等にとつては死者は全體として――一部分としての靈や魂などでなく、同樣の名をもつて呼ばれる場合
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