と到底表現の世界意味の世界觀念の世界を脱し得ず、ライプニッツの語を借りるならば、「何物かが出入し得るやうな窓を有せぬ」自己と稱する密室に監禁されたる囚人でをはり、かくて懷疑論や觀念論は避け難き歸結となるであらう。幸ひにも自然的生が認識に實在的根據を與へる。吾々は直接に實在者に出合ひ行當り、そのことによつて直接に實在者との交りに入る。かくて主體の生内容は他者の象徴となり、主體の自己表現と他者の自己表現とは一に合する。認識に實在的根據を與へるものはかくの如き直接的體驗である。客觀的實在世界の認識はかくの如き體驗への復歸を求めそれとの聯關を打建てることによつてはじめて可能にされる。
かくの如く客體が自己表現でありながら同時に他者の象徴であることは、推理を從つて疑問を超越したる生の根源的事實である。しかしながら他者の象徴たるべき客體が飽くまでも自己の世界に留まることも否み難き事實である。客體は客體としての本來の性格においては實在的他者との聯關を有するものではない。むしろかかる聯關を離脱する點にそれの本質は存するのである。實在者と出會ふことによつてかかる聯關は設置され象徴性は成立するにしても、この新しき性格は、認識の立場反省の立場においては、本來無きものがあとより附加はつたのであつて、主體の自己表現としてのそれ本來の性格はそのことによつて何の動搖をも來さぬのである。それ故象徴性は、この場合、本來一定の性格を有するものがその性格を保存しつつしかも同時に他者を代表し、自己の内在性を維持するものがしかも同時に超越性を獲得することを意味する。それ故表象の上においても、他者を表現するものは、主體を表現するものを基礎とし材料とし模範とすることによつてはじめて成立つ。他者は勢ひ擬人的に表象されるのである。吾々はもとより體驗において直接に他者の言葉を聽く。しかもその言葉の理解は自己の言葉人間の言葉によつて行はれる外はない。この世の現實的生の續く限り擬人性は認識の、從つて認識を契機として含むあらゆる生の姿の、免かれ難き運命である。しかしながらこの代價を拂ふことによつて、吾々は自己の限界を超越してあらゆる存在の祕密にも參與するを許されるのである。
一五
吾々は今ここに客觀的實在世界における存在の基本的形相即ち所謂範疇について立入つた論述を展開すべきではない。それは吾々の任務を超えたる、しかも甚だ困難なる課題となるであらう。吾々はただ當面の問題に必要なる程度に考察を限らう。客觀的實在世界の範疇のうち最も重要なるは實體性と因果性とである。實體性は、上に述べた所より直ちに推測し得る如く、畢竟主體性に外ならぬ。因果性は客體間の聯關意味聯關が實在的聯關に變じた場合に生ずる。すなはち、二つの客體乃至客體群が各別々の實在的中心の表現たる意義を擔ひつつ相聯關する場合には、そこに因果關係が成立つ。それは主體と實在的他者との關係に象られたるものである。この關係において主體は生の中心として外へ向つて働きつつしかも外より働きかけられる。能動性と受動性とは自然的生における主體の二重的性格をなす。そのことに應じて客觀的實在世界においては實體は互に能動者であり又受動者である。因果關係は相互作用として成立つ。客觀的世界像は人間の姿に象られて成立つといつても過言ではないであらう。
尤もこれは客觀的實在世界が實在的である限りにおいて起る事態である。吾々は認識の實在的妥當性が自然的生への或る程度の復歸によつてはじめて可能となるを見た。しかるに自然的生は前後左右を顧みることなしに他者へとまつしぐらに突進する。それは認識の本質をなす觀想とは正に正反對の性格を持つ。心理的に言ひ表はせば、知性よりはむしろ意志乃至衝動として働く。かくて吾々はここに客觀的實在世界の認識の二重的性格に特に注意を向けねばならぬに至る。觀想そのものの本來志向する所より言へば、これは克服さるべき事態である。自然的生の名殘りを出來るだけ稀薄にすることによつて、可能ならば純粹客體へまで昇ることによつて、認識本來の志向ははじめて充たされるであらう。ここに、近世自然科學が現になしつつある如く、出來るだけ擬人的表象を遠ざけ、主體性を示唆するあらゆる規定を除かうとする努力が必要となる。しかしながらこの努力の成功には限度がある。例へば假りに力や作用を意味する規定を除き得たとしても、外面性・他者性・關係性を意味する規定は、我にあらざる我に對立する存在乃至それの聯關が除き得ぬ限り、なほ殘り留まるであらう。空間は實にかくの如きものである。
「空間」の本質を理解するためには、吾々は時の場合と同じく客觀的實在世界の基本的構造をなす客觀的空間より根源的體驗へと遡つて、自然的生における根源的空間性を見究めねばならぬ。すでに述べた如く、自然的生において主體は實在的他者と直接的關係交渉において立つ。その場合吾々は二つの面又は契機を區別し得よう。第一は他者との交りにおける主體そのものの内部的構造であり、時間性はそれの性格をなす。第二は他者へと向ふ限りにおける主體の姿、即ち他者への存在としてのそれの基本的姿である。これが即ち空間性である。簡單にいへば、内に向ふ主體の姿が時間性、外に向ふ姿が空間性である。かくの如く空間性は根源的生の對他的對外的性格をなすものとして外面性相對性の最も基本的根源的なるものである。
それ故、自然的生が或る程度までそれ本來の權利を囘復することによつて客觀的實在世界が成立つに至つて、空間がそれの基本的形相をなすは當然といふべきであらう。客體の世界はそれの背後の主體的存在者に歸屬せしめられることによつて實在性を獲得する。實在者相互の關係は空間的でなければならぬ。實體は空間的存在を保ち、それの相互作用としての因果關係も空間の中において行はれる。空間性は客觀的實在性の最も基本的規定となる。空間性は根源的體驗まで遡れば時間性に對して決して優先權を有するものではない。主體の生の内部的構造より切離されたる單なる對他性對外性の形式として、それは時間性と比べてむしろ抽象的派生的であるを免れぬ。しかしながら客體の固定ついでは實在化が行はれるとともに、それは優先權を主張するに至る。主體の内部的構造を示唆するやうな規定を排除しながら、しかも飽くまでも主體性を保存しようとするためには、これが殘されたる途なのである。すなはち客觀的實在世界の空間性はそれの實在性に基づく。それが空間的存在を保つのはそれが主體として表象されるより來ることなのである。主體と實在的他者性の間柄に立つことによつて客體は主體性を獲得し、そのことによつて更に空間性を獲得する。
かくの如くにして自然的生の支配の及ぶ限り空間性の支配も亦及ぶ。觀念的存在の成立とともに類を異にする他者性が現はれるに相違ないが、そこでさへ空間性の覊絆はなほ纒はつてゐる。純粹形相純粹客體の世界乃至は永遠的世界の具體的譬喩的表現が空間性の像を借りねばならぬのはここより來る(一)。觀念的世界そのものがすでに「上」の世界なのである。空間性は根源的には自然的生における實在的他者性であり、觀念的存在の成立とともにこの他者性は超越されるが、自己實現の新たなる領域においても自己性の支配の及ばぬ限り即ち他者性の勢力の殘る限り、自と他との區別の存する限り、根源的原始的他者性との聯關は存續するのである。ましてや自然的他者性への復歸を意味する客觀的實在世界が全く空間性の支配の下に立つは當然である。ここでは空間性はもはや譬喩的表現としてではなく、實在者そのものの本質的性格として威を揮ふ。かくてそれは客觀的時間即ち客觀的實在世界の時間性において最も重要なる契機をなすに至る。
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(一) プラトンの eidos 又は idea は、「見得べきもの」(horaton)と區別して特に「思惟し得べきもの」(〔noe_ton〕)と呼ばれをるに拘らず、本來「かたち」又は「すがた」を意味する。すなはち高級なる「見得べきもの」である。比較的嚴密なる概念的論述を試みてゐる「國家」篇によつても、それは「思惟し得べき場處」又は「空間」(〔ho noe_tos topos〕)において存在する(Poaliteia 517 b)。なほプラトンの思想がプロティノスを介して、ダンテの「天國」篇に影響したことは多くの學者の認める所である(例へば Th. Whittaker: The Neoplatonists. P. 199 ff)。
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一六
客觀的時間は文化的時間の舞臺より主體が退場して生ずる故、活動に固有なる客體面の凹凸波動はここでは消え失せ、世界の平坦なる等質的なる客觀的形相乃至秩序としての時のみが殘る。尤も現實的生においては客體内容に主體性を付與する擬人觀が強く働く故、その擬人觀の形態又は程度に應じて、客觀的時間の構造も可なり複雜なるものとなる。例へば、相互に作用しあふ客觀的實體は、いはば各私的の時間性を有するが如く表象される。萬物は滅び易く萬事は常無しといふが如き判斷も、客觀的實在世界に關する判斷としては、擬人觀の産物である。認識としての性格が向上を見、擬人性がますます克服され客觀性がますます確保されるにつれて、一切事物を等しく支配の下に收める、單純なる等質的なる、いはば公的なる、客觀的時間が立場を固める。ここでは過去も將來も去り、留まるはただいづこも同じ現在のみとなる。かくの如く等質化平等化したる現在においては、他者性關係性はもはや空間のそれでのみあり得るであらう。なほ時について語らうとすれば、それは空間的の或る規定例へば長さといふが如きものに置換へられるであらう。そこには嚴密の意味の方向即ち時の不可逆性は存在せず、いかなる變化も運動も逆に元に戻すことが可能となるであらう。現に物理學の基本的法則が時の方向に對して全く無頓著であるとは學者の説く所である(一)。時を全く空間に還元し四次元の世界を説くことが、自然科學説として正しいか否かはその道の人の判斷に委ねらるべきであらうが、かくの如き思想そのものが時間性の客觀化を極端化したものとして優に成立し得ることは疑ひの餘地が無い。
しかしながら客觀的時間は空間ではない。それは、空間化され殊に空間的像を借りずには表象し得ぬものであるが、依然時間である。主體は姿を隱くさうとはするが決して自ら無きものにしようとはしない。客觀的時間が文化的時間の變種である限り、文化的生從つて又自然的生の主體は儼然蔭に立つてゐる。そのことによつて、一切を包括する等質的なる内部的分化を有せぬ現在は、一定の方向を得、一定の方向を取つて動くもの流れるものとなる。かくて時の流動推移が成立つ。但し嚴密の意味における時の内部的構造、過去と將來との律動、はもはや逝きて歸らぬものとなつた以上、時の流動推移は現在(今)の連續に過ぎぬものとなる。包括的なる一つの現在はいくつもの小現在に分裂し、かくて等質的ながらも他者性を内に含む、存在の客觀的秩序としての時が成立つ。これが客觀的實在世界の最も基本的秩序である空間の助けによつてはじめて存在すること、又それの像の助けを借りてはじめて表象され得ること、は當然といふべきである。かくて客觀的時間は、時の點即ち今(現在)の連續として、一定の方向に向ふ直線として表象される。各時點の關係は單に外面的即ち空間的である。一が他に非ず一は他と相容れぬといふだけに盡きる。一定の方向を有するゆゑ「前」「後」の別はある。しかもこれさへ、すでにアリストテレスの見拔いた如く(二)、本來は空間的規定なのである。それが過去及び將來とは全く別の事柄であるはもはや特に言ふを要せぬであらう。
空間化したる時間に外ならぬ客觀的時間においては、それの内部的構造は、空間においてと同じく、等質性即ち同一内容の單なる連續單なる繰返へしに盡きる。一と他とを區別するものは、單に、他であること、互に他であること以外にはない。このことは根源まで遡つて次の如く理解することが出
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