して吾々を實在者特に自然的實在者へと導く、客觀的自然、即ち自然科學の對象をなす客觀的實在世界は、かくして、客體の他者性を強化しつつ過去の鞏固なる背景を築き上げる。囘想は自然科學と特に親密なる間柄に立つといふべきである。これに反して將來とそれに對應する構想とは吾々を哲學の方向へ誘導する。自己認識において自己性と形相との位置に立つ客體的形象を、他者性と質料との位置に立つものより引離して固定することによつて、哲學の對象であるイデア・純粹形相が成立つことはすでに前に述べた如くである。これを吾々が今到達し得た理解によつて補足すれば、將來に向ふ構想こそ哲學の母胎といふべきであらう。將來に屬する限り、客體は又それの觀想である構想は、活動の一契機に過ぎぬ。客體面の凹凸高低が、質料と他者性とを代表する形象を切棄てることによつて、平らに均らされ純粹形相の世界が展開されることによつて、活動は觀想に席を讓り將來は純粹の現在の中に融け込み、活動の一契機であつた構想は眞の存在、存在の純なる靜かなる姿、の觀想――直觀――へと進展を遂げる。哲學の對象であるイデアが活動と結び附く時イデアール(理想)の地位を獲得するのも、又生の現實の理解に際し規範乃至價値としての意義を發揮するのも、ここよりして解し得るであらう。又自然科學より哲學への道がはじめより塞がれてゐることも容易に看取される事柄である。自然科學は客體面における他者性の強化による自然的生への復歸として哲學とはまさに正反對の方向を取る。哲學が將來への方向の徹底ならば、自然科學は反對に過去への方向の徹底なのである。
過去と將來とは交互的聯關において立つ。この場合吾々が特に注意し強調する必要のあるのは、重心が斷然將來へ傾いてゐることである。そのことは、將來が自己性と形相との領域に對應するものとして、自然的生よりの解放自由の世界への向上を志す文化的生にとつては、過去に比して遙かにそれの本質に適合したものであることによつて、すでに一般的に明かにされるが、立入つて考察すれば特に次の如き具體的の事情に基づく。すなはち、歴史的時間において現在を介して將來に影響を及ぼす過去は、客體的存在を保つものとして純粹の他者ではなく、可能的自己の範圍における他者性の契機に對應するものに過ぎず、すでに主體の自由に委ねられたるものであり、從つてすでにはじめより將來的性格を有し、すでに將來によつて色どられ影響されたるものである。過去は常に將來の支配の下に立つ。單なる事實性實在性はもとより主體の處理を拒むであらう。しかしながら内容は、即ち文化的意義における存在は、觀念的存在、意味としての存在である。それ故歴史における過去は決して單なる既定的事實ではない。それは將來の異なるにつれて變貌を見るべき存在である。歴史的事實は、「歴史的」と呼ばれ得る限り、主體の生の移動と共に絶えず變貌する流動的性格を擔ふ。過去の囘顧は將來の展望によつて絶えず新たなる姿と新たなる色彩とを展開する。かくの如く將來の優越性のもとに現在を介して行はれる過去と將來との交互的聯關において歴史は成立つ。歴史において人はいつも新たなる將來に生き、更にそのことによつて、又いつも新たなる過去に生きる。かくて過去は全く取返へしのつかぬ決定的宿命的なる事柄では無くなる。
一三
以上論じ來つた所によつて吾々は文化的時間の特質を明かになし得た。ここでは主體とそれの「現在」とが一切を支配する。過去も將來も等しく現在の内部的組織に屬するものとしてそれによつて包括されそれの部分乃至契機(要素)をなすに過ぎぬ。自然的時間においても或る意味においてすでに現在は過去と將來とを包括した。これは時が根源においては時間性として主體の性格として成立つことの必然的發露である。現在が首位を占めることは時間性のあらゆる姿の共通の特質をなすのである。しかしながらその共通の地盤を一足踏出すや否や道は分かれる。自然的時間においては現在は兩面において自己以外のものと境を接しそれの壓迫侵略に屈した。すなはちそれは一方實在的他者よりの拘束に從ひつつ他方非存在の中に滅び去らねばならなかつた。現在の内部的構造は宿命的必然性へのそれの服從を意味した。しかるに文化的生においてはかくの如き制限は撤廢され、必然性と拘束とを哀訴したものが却つて自由と解放とを謳歌するものとなる。そのことに應じて文化の世界客體の世界は存在のみの世界となる。そこには嚴密の意味の無や非存在の住むべき場處が無い。「考へられるものと有るものとは同一である」といふパルメニデス(〔Parmenide_s〕)の有名な句は文化的生のこの特徴を簡明に適切に言ひ表はしたるものとして典型的意義を有する。過去は存在の墓であることを止めてむしろ存在の泉となる。かくて時の流れは逆流する。過去より發し現在を經て將來へ向ふ。しかも過去も將來も現在に從屬する特殊領域に過ぎぬ故、時の流れは内に留り、外より來り外へ消え失せることがない。かく考へ來れば、文化的歴史的時間は或る形或る程度における時間性の克服であることは疑ふ餘地がない。しかしてこの克服は畢竟「過去」のそれである。過去は全く面目を新たにし自然的時間において有した絶對性を抛つて、むしろ主體によつて從つて現在と將來とによつて形成され處理されてはじめて成立つものとなる。文化的歴史的時間が支配する限り、生は内部的構造においては活動の性格を擔ひ從つて變化と運動との姿を示すであらうが、しかも全體としては、生きることを知つて滅びることを知らぬであらう。形相及び自己性と質料及び他者性との兩面が共に具はつて兩者の聯關としてのみ生が成立つ以上、主體は變り行く將來の展望を樂しみつついつも新しき希望に躍るであらう。現在への喜びを基調として自由と進歩との朗かなる旋律が生の情調を活かすであらう。これに優る幸福ははたしてこの世に求めらるべきであらうか。
しかしながら、文化的生は自然的生を又歴史的時間は自然的時間を基體としてその上に立つものであり、從つてそれを擔ふ地盤の制約と影響とを脱し得ない。一切を擔ふ「現在」は依然絶え間なき移動轉化を示す現在である。無の中より浮び上る如く見える過去はただ絶えず無の中に沈み行く現在によつてのみ支へられる。生は滅びることを知らぬであらうが、それは現在が持續する限りといふ條件の下においてに外ならぬ。その恆常性は結局瀧つ瀬を彩る虹のそれ以上のものではあり得ぬであらう。外觀は平和と幸福とをたたへる如くであらうが、立入つて實質的内容を檢討すれば、他者性と自己性との兩契機從つて過去と將來との兩領域は、相俟ち相促しつつ、しかも他方において互に牽制し互に反目しつつ、文化の存在の意味である自己實現をいつも未完成のままに置去りにする。生はいつも缺乏の中に留まりいつも完きを得ずにをはる。過去と將來とのいつも新たなる色彩華やかなる交互聯關は、結局絶えず壞滅の中に消え失せて行く自己の姿を蔽ひ隱さうとするはかなき幻の衣に過ぎぬであらう。文化主義人間主義世俗主義は畢竟かくの如き自己欺瞞の所産でなくて何であらうか。
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第三章 客觀的時間
一四
客觀的時間は文化的時間の變種に過ぎぬ。それは觀想の立場において時間性の取る特殊の性格である。しかもこの立場においては主體は客體の蔭に隱れ單に動作の隱れたる中心としてのみ存立を保つ故、この時間性の主體に對する意義は稀薄である。徹底的にいへば、後の論述で明かであらう如く、時間性よりの離脱こそこの立場にふさはしき態度なのである。しかしながら、觀想が客觀的實在世界の認識といふ形を取る場合には、すでに論じた如く、自然的生への或る意味の復歸が行はれる。具體的にいへば、かかる認識が實在者のそれとなるためには、吾々は客體内容及びそれの聯關の考察だけで足りるとはなし得ぬ。例へば理論的物理學においてさへ實驗が必要である如く、吾々は實在的他者に出會ひ行當りそれと自然的直接性の間柄に立たねばならぬ。しかるに自然的生への聯關がなほ殘留する處には時間性も亦殘留する。かくして成立つのが客觀的時間である。客觀的實在世界の認識が觀想である限り主體は影をひそめ活動の性格は表面より退く故、この時間性は主體自らの性格をなすことなく、ただ客體の世界の性格をなすに過ぎぬ。さてこの時間性の構造を理解するためには吾々は客觀的實在世界の構造を明かにせねばならず、しかもそのためには吾々は遡つてこの世界がいかにして成立つかを知らねばならぬ。
すでに論じた如く、客觀的實在世界は客體を實在的他者に歸屬せしめることによつて成立つ。このことは客體面の擴がつたものが新たに實在的中心を得從つてそれの表現となることを意味する。しかもこの場合その新しき中心は主體と實在的關係交渉に立つ實在的他者である。客體は實在的他者の表現、即ち、それにおいて後者が隱れたる中心としての自己を顯はにすることによつて自己主張自己實現を行ふ所のものとなる。言ひ換へれば、實在的他者は客體に對していはば新たにそれ自ら主體の位置に立つに至る。これは認識する主體の動作によつて行はれ、その限りにおいては、主體の自己實現の活動に基づき、從つて文化的生の一形態として成立つ事柄であるが、傍ら又、自然的生への復歸をも意味することはすでに述べた如くである。かくの如く主體の自己表現としての客體が實在的他者の自己表現となることによつて、文化の段階における實在的他者との交りは行はれるのである。主體の自己表現と實在的他者の自己表現とが客體において一に歸することは、それに象徴としての意義と資格とを付與することに外ならぬ。實在性とは中心に立ち中心より生きる存在の謂ひである。すなはち、實在するものは他の何ものかの自己のうちに入り來るを許さず、他者の侵略に對し飽くまでも自己を防衞し、更に進んでは他者を侵略しつつ自己を主張貫徹する。主體の生内容が、主體の自己に屬するものが、實在する他者を指し示し代表することがなかつたならば、主體と他者との交りは行はるべくもない。かくの如き實在的交渉の最も基本的直接的なるもの原始的根源的なるものが自然的生である。文化的生はかかる原始的交渉よりの解放を本來の性格として有するものであるが、假りにこの本質的傾向が貫徹されたとすれば、すでに論じた如く、一切はたわいもなき夢や幻の如く飛び散り實在する主體は空虚のうちに融け去るであらう。客體の他者性の強化によつてこの危險を食ひ止めるのが客觀的實在世界の任務であり、しかしてそのことは自然的生への一種の復歸によつて行はれる。しかもこの復歸を成就するは認識である以上、認識が文化的生においていかに重要なる役割を演ずるかは、この方面よりしても明かに看取されるであらう。それは一方より觀れば觀想の性格を擔つて文化的生の本質的傾向の貫徹を志し、しかも他方、自然的生への復歸を遂げることによつて同じ生を崩壞より救ひ、それに根源への復歸と實在的基礎とを確保する。これは日常生活においてすでに行はれ居る事であり、認識が學問へと發展擴充を見ることによつて、それの本來の志向は完遂される。
以上によつて擬人性が客觀的實在世界の認識の必然的特質をなすことは明かとならう。認識の直接の對象をなすものは客體としての觀念的存在者であり、これの根源的意義は主體の自己表現であるに存する。主體は自己の表現を通じてはじめて他者を認識し得るのである。實在する他者そのものは決してわがうちに入り來らず、しかもわれに屬するものが同時にわれの外《そと》にあるものを代表する處に認識は成立つのである。若し主體の表現と他者の表現とが一に歸して主體における他者の象徴を成立たしめることが無かつたならば、認識は到底不可能にをはるであらう。ここに古へより認識の客觀的妥當性を否み又は疑はうとしたあらゆる教説の究極の根據が見出される。若し推理によつて、從つて反省の立場に立ちつつ客體内容の聯關をたどることによつて、實在者に到達する以外に途がないならば、吾々はいかに力めようとあせらう
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