哲學において最も完全に行はれる。
 尤も異なつた第二の道を取る可能性はなほ殘されてゐる。客體の他者性の強化それの實在性への徹底はかくの如き純粹形相純粹客體の場合にも行はれ得る、少くも歴史的事實としてはしばしば行はれた。プラトンよりヘーゲルに至るまでの觀念主義の形而上學が即ちそれである(三)。この場合イデアは第二段的高次的客體であり、從つてそれ自らとしては根源的體驗における實在的他者へ還元されるを拒むゆゑ、主體の高次の自己認識として以外には實在者の象徴としての意義を獲得することはもはや不可能である。それ故、哲學への唯一の正しき道を取るを肯んぜぬ思想家たち、カントが獨斷論者と呼んだ人々、はそれを直接に實在者の地位に据ゑる外はないであらう。かくて本質上は何の背景も奧行もなく底の底まで顯はなる純粹形相がそれ自らとして實在者を以つて自任するに至る。かくの如き形而上學は、その他の點においていかに傾向や内容を異にしてゐるとしても、等しく皆過まつた基礎の上に立ち不當の權利を僭するものに外ならぬ。
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(一) 「宗教哲學」一六節、二六節、參看。
(二) 「宗教哲學序論」殊に六節、一六節以下、參看。
(三) 「宗教哲學」殊に一六節、二〇節、參看。
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      三 文化的時間性

        一一

 徹底したる觀想に在る主體は自己を表現し盡して全く客體の蔭に隱れ、自己實現として活動としての姿を表面に現はさぬ故、その限りにおいて時間性は離脱される。ただ自然的生と自然的實在性とへの復歸を意味する客觀的實在世界の認識においては時間性はなほ殘る。かくて歴史的時間とは異なる客觀的時間(又は宇宙的時間)が成立つ。主體は姿を隱すゆゑ、これは主體自らがその中にあつて體驗する時、即ち主體自らの性格をなす時間性ではなく、客體の世界客觀的實在世界の性格・形式・法則などとしてのみ成立つ時間性である。すなはち生きられる時ではなく觀られる時である。吾々が日常生活において時を測り時を語り存在並びに出來事の時間的位置を定める場合の時乃至時間性はこれである。時計の時天文學の時もこれである。主體も、外的客觀的實在世界の一部と特に親密なる關係に立ち、廣き意味において身體と呼び得る表現を遂げる限りにおいては、この時の中に生存する。嚴密なる充實したる意味における文化的時間即ち歴史的時間の場合とは異なつて、ここでは活動に固有なる客體面の波動凹凸は跡を絶ち平坦なる客體面のみ殘る。客觀的時間は通常直線の形に表象される。もと文化的時間の變種であり、それの破片の引伸ばしと見ることが出來る。恰も曲線の破片が直線と見える如くに。尤も歴史的文化的生において他者性を代表する形象が根源としての實在的他者へ歸屬せしめられる場合には、文化と歴史とは客觀的實在世界を基體となし、それを形作りそれにおいて自己を實現し表現するといふ意義を得る。その限り歴史的時間は客觀的時間を部分的要素として包含する。しかしながらそのことは全體としての文化的歴史的時間の構造の理解には何の影響をも及ぼさぬであらう。今や吾々は幾多の紆餘曲折を經てこの課題へと直進すべき時となつた。

        一二

 文化は自然的生の土臺の上に建設される故、文化的時間性は自然的時間性よりの全面的影響の下に立つが、今は差當り出來るだけその影響より切離されたる純粹の姿を眺めつつそれの構造を明かにすべく力めようと思ふ。
 文化的生においては主體は主體性を從つてそれに固有なる自己主張を飽くまでも保存し、ただ他者のみ自然的實在性を離れて客體となる。しかるに客體の存在は主體へのそれであるに過ぎず、それの本質は主體に對して可能的自己乃至自己表現であるに存する故、その限りここでは自然的根源的時間における「將來」も「過去」も姿を消し、主體の時間的性格としての「現在」のみが殘る。文化的生の時間的性格は現在に盡きるといふも過言でない。主體は無くなつた過去を悼むに及ばず未だ來らざる將來をかこつこともなく、ただひたすら現にその中に生きる現在を樂しむのである。このことは、他者が純粹の客體性に留ることを少くも理想とする美的及び理論的觀想において最も完全に行はれる。時間性の觀點よりみれば、物の美しき又は眞なる姿に見入る喜びは現在を樂しむ喜びである。
 かくの如く一切を支配し一切をその雰圍氣の中に包む主體の現在性の内部的組織に屬するものとしてのみ歴史的時間の「過去」と「將來」とは成立つ。兩者はここでは自然的時間におけるものと異なつた新たなる意義を得る。
 それに新しき意義を與へつつ「過去」を成立たしめるものは「囘想」(又は記憶)の働きである。囘想の内容としての過去は無に歸した有の再現である。かくの如き再現の働きに、しかし又それの成果にも囘想といふ名が與へられる。その場合再現されて現在する有は勿論客體的存在に過ぎないが、ここに、非存在が存在に向ひ無より有が呼び起されつつ、自然的時間においてとは正反對の方向に存在の移動が行はれるといふ現象が發生することは特に注目に値ひする。
 客觀的實在世界に屬する乃至はそれと關係づけられる經驗的事實としての囘想には種々の科學的説明が與へられるであらう。例へば特定の出來事の影響や痕跡が殘ることによつてなどの如くに。しかしながら、かかる説明がすでに囘想の働きを前提するといふ難點を除いても、囘想は單に同一内容の保存や持續ではなく、むしろ同一内容がそれとして認識されることを意味する。しかるにこのことは更にその内容その客體が同一主體に屬すること同一自己の表現であることを前提する。主體が自己意識にまで昇り「自我」として成立ち自己と客體との對立及び關係において生きること、即ち反省の段階に昇り自由の境地に進んだこと、によつて囘想は可能にされる。
 尤も反省の立場文化の段階においては、それの時間的性格が現在に盡きる如く、一切は有であり存在である。そこには嚴密の意味においての無は存在しない。客體としての「無」や「非存在」は、主體の現在の内容をなすものとして、それ自ら一種の有、存在の一種の仕方である。從つて囘想は、それの可能性の根據である反省の立場においては、一つの有り方にある何ものかと他の有り方にある同じ何ものかとの間に存する聯關意味聯關において成立つといふべきである。しかしながらこれだけでは過去の性格を可能ならしめる囘想の意義を盡したとはいひ難い。反省の立場においての無といふ有り方が更に體驗――この場合自然的生の體驗――においての無を代表する場合にのみ囘想は有意味となるのである。しかしてこのことは反省の主體が更に根源への復歸をなし得ること、その意味において、すでに前に述べた如く、先驗的囘想をなし得ることを前提とする。しかるにこの事は、すでに前に述べた如く、すべての生從つて自然的生が體驗としてすでに反省の契機をうちに包含することによつて可能なのである。すなはち反省は無より有を生ずるのでなく、すでに潛在的にあるものが顯在的にあるやうになるを意味する。尤もかく言ひかく考へる場合吾々は反省の立場に立ち、體驗における生の從つて實在性の契機と反省の從つて内容的觀念的契機とを區別しつつ兩者の間に聯關を設定する故、前者即ち實在性も亦一種の觀念的内容となるが、これは何事によらずすべて體驗へ又根源へと遡らうとする際に起る困難であつて、もはや反省の立場において解決し難き問題である。それは生の基本的事實として、身自らその中にあつてその事を生きる外に途がないのである。吾々がすでに自己認識に關して出會つた困難、即ち隱れたる實在する主體と顯はなる觀念的主體との同一性の困難も、立入つて見詰めれば、結局同じ困難であり、皆等しく吾々が主體の先驗的同一性と名づけたものに還元される。それは根源的體驗と反省とにおける主體の同一性であり、實在する主體と客體面に觀念的聯關として表現される主體との同一性であり、從つて又認識する(實在的)主體と認識される(觀念的)主體との同一性でもある。かくの如く反省そのものがすでにこの同一性を前提する故、それは理解し得る事柄ではなく、その中に生きつつ體驗される生の基本的事實なのである。
 さて囘想は無に歸したる内容の再現である。その内容の實在的有は無の中に葬り去られたるままもはや呼び返へすすべがない。存在は觀念的存在として再現を見る。このことはいふまでもなく反省の働きによつてなされる。すなはち、觀念的存在者が實在者を離れて遊離し新しき特異の存在に入り、しかも聯關と同一性とを保つことによつて囘想は可能となるのである。しかしてこの囘想によつて文化的時間における過去は成立つ。
 かくして成立つた過去は主體及びそれの現在の中に包まれつつそれとの聯關において立ち、それの一契機乃至一領域として特異の役目を務める。すなはちそれは無に歸したる存在の再現再生として、反省の立場に立つ主體に存在の供給者の任務にあたる。客體の存在を維持し補給するものとして、それはそれにおいて主體が自己を實現すべき質料の意義を持つ。すなはち文化的生における他者性の領域にそれの時間的性格として對應するのが過去である。自然的時間において存在の供給者は將來であつた。文化的時間においてそれと同一の任務に當るのが過去である。さて客體の他者性は究極は實在的他者性に根源を有する故、文化が實在的世界との聯關を保つのは過去によつてである。かくの如くにしてここに時の方向の一種の顛倒が行はれる。滅亡を意味した過去が却つて他者の位置に立ちつつ存在の供給者となる。ここに根源的時間性の或る形或る程度の克服が存することは否むべくもない。
 過去が他者性の領域に對應するに對し、「將來」は自己性と形相との領域に對應する。過去が受動的であるのに反し將來は能動的である。一は働きかけられるもの他は働きかけるものである。
過去より存在を受取つた主體は、かく與へられたるものを、將來として前面に顯はになつた自己によつて形作りつつ、自己實現自己表現をなさうとする。時は過去より現在を經て將來への方向を取つて進む。
 過去も將來も現在の共通の地盤の上に立ち、否むしろ同一現在同一自己の中に全く包括され、それの内部的分化乃至組織としてのみ成立つ。兩者は等しくともに同じ現在同じ自己の有り方であり、ただ異なつた有り方としてのみ區別されるに過ぎぬ。かくしてここに現在を介して兩者の間に交互的聯關が成立する。先づ過去は、存在の供給者として形作らるべき質料として客體の他者性の領域として、それにおいて自己を實現する主體の動作を制約し制限する。又そのことによつて將來に影響を及ぼす。客體が實在するものの世界との聯關を保つは過去によつてであり、過去の根源は實在する他者又は主體である。中にも、認識によつて維持固定される實在的他者との聯關は從つて客觀的自然は、過去の背景をなしつつそれの他者性を強化するに特に役立つ。しかしながらかくの如き自然も客體に屬し從つて可能的自己としてのみ文化的意義を有し、又過去も結局主體の現在に包括されて成立ち從つてそれの支配の下に立つ故、文化的歴史的時間においては、過去は自然をも含めて自己の過去としてのみ成立つのである。主體が自己の過去の土臺の上に立ち、それを與へられる可能性與へられたる質料となしつつ、それにおいて又それに應じて自己を實現し表現する處にのみ歴史は存在する。
 過去がすでにさうであるが、まして將來は自己の將來としてのみ有意味である。將來は文化的生における形相及び自己性の領域に對應するものとして、現在を介して過去に働きかけそれを形作る。將來は自由の領域である。それは又活動における自己性の契機を表現するものとして觀想と特に親密なる間柄に立つ。活動する主體は自由の世界を求めつつ來るべき現實を將來に望み見る。これは觀想の働きによつて行はれる。かくの如く活動の一契機として將來に向ふ觀想は通常特に「構想」又は「想像」と呼ばれる。
 過去に囘想が對應する如く將來には構想が對應する。過去は他者性の側に立つものと
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