を止めて全く主體の所有に歸入し、かくて兩者の完き合一が成就されるまでは歩みをとどめ得ぬであらう。しかもこのためには、いかに少しばかりとはいへ主體客體の隔りの前提の上に立つ觀想にとつては、自己を徹底させることによつて自己の破棄を企てる外に途は無いのである。古來神祕主義はかくの如き境地に達しようと努め又その努力の成功を信じた(四)。惜いかなその成功は却つて一切の夢幻化虚無化に等しいであらう。他者の無き主體は死するより外はないのである。
 以上の事態は觀想が生の最高の姿ではあり得ず、從つて文化的生は更に一段高き生の姿によつて克服止揚さるべきであるを教へる(五)。しかしながらそのことの立入つた究明はここでは割愛して、吾々はなほも文化的生の考察を續けつつ時間性の理解へ歩みを進めねばならぬ。吾々は文化的生が本質上活動であるを見た。しかるに活動するものである限り、主體は飽くまでも自己を主張し乃至露出し、同時に又飽くまでも他者との關係交渉を離れず乃至離れようとしない。ここに時間性との聯關は成立つのである。言ひ換へれば、實在する主體が自己主張としてのそれ本來の性格を抛棄せぬ以上、主體の基本的構造である時間性は、文化的活動においてもそれの基本的構造をなさねばならぬ。ただ他者がこの場合客體であることによつて時間性はいくらかの變貌を見るのである。時間性の性格において觀られたる文化的生の具體的の姿は「歴史」である。それ故文化的時間は歴史的時間としてのみ成立つ。勿論その場合吾々は歴史といふ語を最も廣き包括的なる意義において理解する。かく解して歴史の内部的構造が更に立入つていかなる姿を示すかは吾々の課題に關はりなき問題として今は考察の外に置かねばならぬ。時間性の觀點より觀れば、例へば主體が個人であるか集團であるかなどの問題は度外視して差支がない。
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(一) 次の二書參看。Boll: Vita contempletiva. (1922) . ―― 〔W. Ja:ger〕: Ursprung und Kreislauf des philosophischen Lebensideals. (1928) .
(二) 「宗教哲學」一九節參看。
(三) 三種類の他者性については「宗教哲學」の諸處殊に四四節參看。
(四) 神祕主義については「宗教哲學」二一節以下、四五節、參看。
(五) 「宗教哲學」二六節以下、三七節以下、參看。
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        一〇

 吾々は歴史的時間性の立入つた論述に移る前に、今ここに、活動の一種に屬しながらそれの克服を志しかくて時間性にいくらかの變貌を來すであらう觀想の働きについて、尤もこの特殊の觀點よりして、更に展望を擴げよう。觀想は大體「美的觀想」――特に觀照ともいふ――と「認識」との二つに大別することが出來よう。美的觀想においては客體は自然的實在性より遊離してはゐるが、この遊離状態にそれを維持しようとする態度は顯はには現はれぬ。内容は實在的他者の象徴としての意義を棄てるが、なほ自然的生の具體性に留まつてゐる。之に反して認識においては遊離したる觀念的存在者はそれの獨立性乃至優越性において維持堅守される。すなはち客體は固定を見る。このことに應じて内容は抽象性普遍性の方向へ進む。自然的生よりの距離はますます著しくそれよりの解放はますます明かとなる。さて觀想においては、前に述べた如く、それの志す所が成就されるとすれば、主體は自己を表現し盡して全く客體の蔭に隱れるゆゑ、後にも論ずる如く、時間性は超越されねばならぬであらう。尤もかくの如き究極地に到達するためには、主體は觀念的存在者をそれの純粹の姿において抽き出しつつ、それの獨立性乃至優越性を徹底せしむべく特別の努力を試みねばならぬであらう。しからばそのことは、觀念的存在者をそれ本來の性格に留まらしめたのでは、果して成功するであらうか(一)。前に述べた如く、文化が自己實現自己表現としてのその本質に副ふやうな存在を保つためには、客體はますます自己性從つて顯在性を強めますます他者性從つて潛在性を弱めねばならぬ。觀想こそこの任務に當るものであるが、しかもそのことの究極の歸着點は一切の他者性の克服であり、このことは結局觀想そのもの延いては主體そのものの自己破棄に外ならぬであらう。それ故客體の固定は却つてむしろ他者性の強化を要求せねばならぬであらう。このことは先づ次のやうにして行はれる。すなはち、主體は振返つて自然的生及び自然的實在性との聯關を求めつつ根源へ遡ることによつて客體の他者性を確保しようとする。その場合觀念的内容は實在的他者の象徴となることによつて、否むしろ根源的體驗において有したる象徴性を取返へすことによつて、實在性を獲得するであらう。尤もその恢復は單なる繰返へしではなく、或は整理であり或は展開であり或は擴充である。かくてここに客觀的實在世界とそれの認識とが成立つ。このことは既に日常生活において行はれるが、それを修正しつつ完成し徹底的に成就せしめようとするのが學問即ち所謂科學の任務である。科學の對象である客觀的實在世界――簡單にいへば所謂客觀的世界――は自然的生及び自然的實在性との聯關を認識によつて維持しようとする働きの所産であり、從つて科學の對象としての「自然」は、カントの洞察した如く、文化的活動の所産である。自然的生に根源を有するもそれより區別されねばならぬ。尤も客體内容のうち、實在的他者の象徴としての意義を獲得せず又それ自身實在者の位に据ゑられることなしに、それ本來の姿において他者性の固定を見るものもある。數學的並びに論理的思惟の對象の如きはこの類に屬する。
 客觀的實在世界の認識は主體が反省の立場に立ちながら、しかも、一旦少くも志向の上においては遠ざかつた、實在者との關係交渉に再び接近するを意味する。さて實在者との交りはすべての生の基礎であり根源であるが、根源を去りたる反省はいかにして又その根源へ復歸し得るであらうか。このことは根源的生が潛在的にすでに反省を内に含むことによつて可能となるのである。すなはち、反省は全く新しきものの突然の發生ではなく、すでに隱然具はつてゐたものが、表面に現はれ出で獨立性を獲得することによつて、固有の本質を自由に發揮することに外ならぬのである。すでに述べた如く、いかなる生も現實的状態においてはすでに何等かの程度において文化的であり又體驗の性格を具へてゐる。それはいかに朧げにせよ氣附く又知るといふことなしには行はれぬ。尤もこのことはなほ自然的生の闇みの中に囚はれてゐる。それが解放されたものが反省に外ならぬ。解放の動作として反省は根源的生との聯關を前提する。この聯關が維持されるが故に復歸も亦可能なのである。今かくの如き復歸を「囘想」(又は記憶)と名づけるならば、認識は囘想によつて成立つのである。尤もそれは認識が成立つて後の、從つて認識の一種としての、囘想とは異なつて、更に根源的なるもの認識そのものの成立根據をなすものである故、カントの用語を襲用すれば、「先驗的(transzendental)囘想」とも名づくべきであらう。しかるにこの囘想は更に根源的體驗と反省との聯關從つて兩者における主體の同一性を前提する。尤もこの「先驗的同一性」は反省の立場において主體の自己實現自己表現においてはじめて顯はとなり、はじめてそれと意識される。客體内容相互の聯關意味聯關を離れて直接に主體の同一性自我の同一性を捉へようとする企ては徒勞にをはらねばならぬであらう。
 客觀的世界の認識と相並んで主體の自己認識も成立つ。すでに述べた如く、客體は主體の自己表現であり、自己の顯はになつたものとして自己性の契機を含む。客體として又客體においての外は主體は自己を顯はにしない。ここに主體の自己認識の可能性の根據は與へられる。この認識は、客體が從つて主體の表現が主體自らの象徴となることによつて、言ひ換へれば、主體自らが主體自らとの交渉に入り、かくて隱れたる自己即ち認識動作の中心と顯はなる自己即ち認識される自己との二つが、分離對立しつつしかも同一性を保有し乃至貫徹することによつて行はれる。このことは單に形式論理的に考へれば或は不可能のやうにも思はれようが、反省の立場において客體が主體より分離しながらしかも可能的自己として自己の表現たる意義を保有することを思へば、むしろ必然的とさへいふべきであらう。その場合客體面が自己性の層乃至領域と他者性の層乃至領域とに分かれをることは、表現を象徴に發展せしめつつ實在者――この場合主體自ら――に關係づけ、かくして表現より認識への轉換を可能ならしめる。自然的生において實在者――この場合他者――の象徴として實在者(主體)の生内容をなしたものは、ここでも客體としての遊離状態を經て再び實在者の象徴として實在者の生内容たる意義を恢復する。この意味において吾々はここでも先驗的囘想の働きを見出すであらう。ただ客觀的世界の認識と異なつて自己認識は、根源的體驗において他者の象徴であつた觀念的存在者がその元の位置に復歸するのではなく、むしろ反對の方向を取つて新たに主體の象徴の位置に推し進められるのであり、從つてその限り復歸よりはむしろ前進を意味する。そのことと聯關して、第一、この認識は單に自然的生の主體に關してばかりでなく、あらゆる段階の生の主體に關して行はれ得る。第二、自己認識は自然的生よりの解放としては前進を意味する故、それの踏み出した歩みは更に新しきいはば高次の反省によつて新しき高次の客體の遊離へと進むであらう。ここに再び道は分かれる。正しき道はかくの如き高次の反省を通じて更に高次の自己認識へ進む。プラトンがイデアと呼んだ高次の存在はかくして生の最も高き自己認識の課題と内容とをなすであらう。ここに正しき意味の「哲學」の世界の展望が開かれる(二)。
 さてそのことは、立入つていへば、次の如くにして行はれる。すでに論述した如く、反省の段階において顯はとなる生の姿は、活動の性格を擔ひつつ二つの領域より成立つ。客體面が一方隱れたる主體的中心に對して他者でありながら他方それの表現であることは、第一段として、その同一面が自己性と他者性との兩契機より成立つことを要求し、更に第二段としては、主體の中心よりの働き掛けが顯はとなりつつ、客體面において自己性と他者性とを代表する二つの領域が分かれ出で相聯關することを要求する。すなはち主體は客體として顯はになることによつてはじめて客體に働き掛けるのである。それら二つの領域乃至二種類の形象は、一つが働き掛けるもの形作るもの他は働き掛けられるもの形作られるもの、一は形相他は質料、の間柄において立つ。反省の立場において自己認識の對象をなす主體の姿もかくの如き構造を示すのである。その場合他者性と質料との側に立つ形象は實在性を代表し、自己性と形相との側に立つ形象は内容を代表するはいふまでもない。實在性はなほ隱れたるものに當り内容はすでに顯はなるものに當る。かくの如き構造はすでに日常生活において具はるが、學問即ちこの場合所謂精神科學において確立と擴充とを見るであらう。然らばさきに高次の反省と名づけたもの即ち新しき高次の客體の分離はいかにして行はれるか。それは、自己性と形相との位置に立つ形象を、他者性と質料との位置に立つものより引離し、それに獨立性と――反省の立場においては勿論さうでなければならぬが――優越性とを付與しつつ、固定することによつて行はれる。自己性の契機のみを代表するものとして斯の如き形象即ち純粹形相は、生の最も顯はなる姿それの眞實の存在――プラトンが 〔onto_s on〕 又は ousia と呼んだもの――を開示するであらう。他者性を代表する形象は後ろに置き棄てられるゆゑ、客體面の凹凸波動は跡を絶ち、實在性の曇りは吹き拂はれて、隈なく澄みわたる客體面に、各それ自らの明るさに照りはえる存在の靜かな姿のみが、見入る觀想の眼に留まるであらう。これが哲學の世界である。文化的生の及ぶ限り自然的生よりの解放は
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