場合自己實現の質料の意義しか有せず、無よりの形成乃至創造が説かれてもその「無」は可能的有の性格を有する質料に過ぎぬであらう(三)。
「象徴」(Symbol)は表現とは異なつて實在的他者との關係交渉において發生する現象である(四)。主體の生内容が遊離して客體となり主體の顯はなる形相の意義を獲得することが表現とすれば、その同じ内容が主體の領域を超越したる彼方の實在的中心と結び附き、從つて自己を顯はにするのでなく他者を顯はにする任務を擔ひ、かくて實在的他者を指し示し代表するものとなる場合に象徴は成立つのである。表現が内在的なのに反し象徴は超越的である。それは一の中心と他の中心とを結び附ける線の上に位し、それ無くば到底相交り難きむしろ相反撥する外なき二つの實在者の間に立ち、兩者を繋ぐ楔を提供し、かくて或る意味においては實在的他者が主體の中に入り來るを可能ならしめるものとして、主體を孤立の状態從つて自滅の運命より救ひつつ、生本來の性格である他者への存在を確保せしめる。中心が存する限り象徴も存し、逆に象徴があることによつて中心も亦あるのである。象徴が去り從つて他者の語る言葉を聽かぬに至れば、主體にとつては死の外に何もないであらう。生が文化的段階まで昇れば象徴は同時に表現であるが、表現は必ずしも象徴ではない。任務を成遂げることによつて表現は却つて主體を自滅に誘ふが、之に反して象徴は自己をますます堅く他者と結びつつ存在の基礎を鞏固にする。表現は吾々を時間性より救ひ得ぬが、後に論ずるであらう如く、象徴をたよりに吾々は永遠の世界に昇るのである。
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(一) Cassirer: Philosophie der symbolischen Formen. 3 Bde. は文化のあらゆる領域を象徴作用によつて説明しようとする頗る注目すべき試みを示してゐる。
(二) 「人」と「物」との區別については拙著「宗教哲學」二九節以下參看。
(三) 本書第七章三六參看。
(四) 「象徴」に關しては本書は「宗教哲學」において説いた所に基づいて「表現」との區別を一層明確にした。「宗教哲學」五・二六・四一・四四・四五・四七・四八等の諸節參看。
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      二 活動と觀想

        八

 論述の本筋に歩みを進めよう。前に述べた如く客體性は他者性と自己性、可能性と現實性、質料と形相との二つの契機二つの面より成立つ。客體の成立にいづれ一つをも缺き難きこれら二者の間に存する聯關乃至緊張こそ文化的生の眞相である。言ひ換へれば、客體の世界はいづこにも兩契機の共存を示すが、客體そのもの從つてそれの構成要素である兩者そのものは等しく自己の表現である故、兩者は更に分離乃至對立する客體として顯はとならねばならぬ。かくて客體の世界は、主體の自己實現の動作にとつては、各の契機がそれぞれ優勢を占める二つの形象乃至領域より成立つこととなる。かくの如き二つの客體領域の聯關として主體の自己實現は行はれるのである。言葉を換へて説明すれば、すでに前に述べた如く、客體は主體の自己表現であるが、その自己は客體内容の聯關としてのみ顯はなのである。客體と客體との聯關を離れて主體の自己性は捉へらるべくもない。今假りに聯關が姿を消し單一なる内容のみ殘つたとすれば二つの契機は同時に消されねばならぬであらう。しかもこのことは客體一般の消滅從つて主體の自己性そのものの消滅を意味するであらう。自己性と他者性との二つが客體の契機である以上、いづれも客體としての存在を保たねばならず、從つて兩者は一と他との間柄に立ちつつしかも相聯關する、相異なつた客體内容として顯はにならねばならぬ。更に言ひ換へれば、客體の世界が成立つためには、各自二つの對立する契機より成る客體内容が他方更に相互に聯關において立たねばならぬ。しかるにその聯關そのものは客體的存在を保つものとして更に二つの契機より成ることを、言ひ換へれば、それらの内容が自己性と他者性との相異なつた意味と任務とを擔ふ、相聯關する二つの領域として相分離相對立するを要求する。かくの如き聯關において又それを通じて自己實現は行はれる。以上は更に簡單に次の如く言ひ換へることが出來よう。客體に對して立ちそれにおいて自己を實現するものは隱れたる中心に立つ主體である。その主體が客體へと働きかけることにそれの自己實現は存する。しかもこの自己實現は、文化的動作として成立つためには、それ自らとして顯はにならねばならぬ。すなはち主體は客體となることによつてはじめて客體に働きかけるのである。從つてそれの自己實現はそれぞれ内容と意味とを異にする二つの客體、一つは自己性の位置に他は他者性の位置に立つ二つの客體、の間の聯關として成立たねばならぬ。さてかくの如き聯關として成立つ限り文化的生は「活動」(〔Aktivita:t〕)の性格を示す。文化的生の最も基本的本質的なる性格は活動である。
 ここに吾々は文化がいかに自然的生の基礎の上に立つかを見、かくてすでにここに文化的時間性がいかにそれの根源である自然的時間性の影響のもとに立つであらうかを望み見ることが出來よう。文化的生に活動としての性格を與へるものは自己性と他者性との兩契機の共存と聯關とである。その場合他者性は、可能性として質料として活動を可能ならしめるが、他方その活動の本質である自己實現の成就を妨げる。客體は他者であるが故にそこに主體は自己を顯はになし得るが、しかも同時に他者である限り、主體と對立しそれといくらかの間隔を保ちつつ後者を顯はならぬ自己に留まらしめる。他者は主體をしてそれとの關係交渉に立つ中心たらしめ自己たらしめるが、又他方においてその自己を隱れたるものたらしめつつそれを無能力從つて非實在的ならしめる。しかるに客體はもと他者の象徴が自己の表現へと轉籍したものであり、それの有する他者性は結局發生地の殘り香に過ぎぬ。その他者性の根源は實在的他者性に求めらるべきである。吾々はさきに自然的生における他者の二重性格について語つた(一)。他者は從つて將來は一方主體の現在を可能ならしめ存在の供給者の役目を務めつつ、他方現在を從つて存在を非存在へ從つて過去へ陷入れる。そのことの歸結として時は絶え間なき流動を示し存在はいつも未完成のままなる斷片的なる結局無意味なる状態に留まる。この事態に應じて文化的生においては自己性と他者性との兩契機は一方互に相俟ち相促がしつつ、しかも他方には相牽制し相排斥するのである。かくて文化的活動はつねに現實性への方向を取りつつしかもつねに目的地を絶えず移動する地平線のかなたに求めねばならぬ。際限を知らぬ連續と安定を見ぬ緊張とは文化の必然的に陷る運命である。
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(一) 三節參看。
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        九

 吾々はさきに客體に對する主體の態度は觀想に存すると言つた。しかるに今や文化の基本的動作は活動であることが明かにされた。これら二つの命題は相矛盾せぬであらうか。觀想と活動と―― 〔theo_ria〕 と praxis と――はギリシアの昔より哲學において相爭ふ二つの陣營を區別する旗印であつた(一)。兩者は果して相容れるであらうか。相容れるとすれば兩者の關係は何に存するであらうか。吾々は次の如く答へよう。活動が文化的動作の一般的性格である以上觀想も亦一種の活動である。ただそれは特殊の意味をもち特殊の方向へ志向する活動である。簡單にいへば、それの目指す所志す所は、自ら活動でありながら活動の性格を脱却し克服することによつて、文化的生の本來の意味を徹底させるに存する。これは活動を成立たしめる客體内容の二つの契機の間の緊張が緩和されつつつひに解除されることによつて行はれる。吾々は自己性と他者性との二つの契機が二樣の表現を見ることについて語つた。活動にとつて特に固有なのは、客體界が兩契機を代表する二つの形象乃至領域に分かれ、それらの間に働きかけるものと働きかけられるものとの關係が成立つことである。この緊張が緩和されるにつれて、形相はますます實現に近づき、自己はますます表現を進め、可能性はますます稀薄となり、隱れたるものはますます顯はとなるであらう。客體が客體として主體に對していくらかの隔りにおいて對立してゐる間は、各の内容を構成するものとしての兩契機の共存はなほ殘されるであらうが、異なつた内容と内容との聯關を支配する緊張はますます解除され、かくて主體は活動者たるを止め客體の曇りなく淀みなき透明なる姿に見入りつつ靜かに休息するであらう。自己を表現し盡したる主體は客體の蔭に隱れもはやわが姿をあらはに對立的位置に置かず、ただ隱れたる中心としてのみ存立を續けるであらう。すなはちそれは生の舞臺より退場するであらう。活動においては働きかける自己が顯はになつてゐる故生は主觀性を帶びるに反し、觀想においては客觀性が特徴をなすであらう。しかしながら觀想本來の傾向は更にここにも安住を許さぬであらう。客體がいくばくかの隔りにおいて主體と對立してゐる間は、たとひ各の内容を構成する内在的契機としてにせよ他者性は從つて自己性もなほ殘存するとすれば、そのことは活動の性格がなほ克服されぬを意味するのではなからうか。一定の内容が客體としての存在を保つ以上は、それは決して單純ではあり得ない。それは兩契機を含むものとしてすでに一と他との聯關を示すものでなければならぬであらう。
 以上はまた次の如く言ひ換へることが出來よう。他者性には三種類がある(三)。第一は實在者が實在者に對する他者性、第二は客體が主體(實在者)に對するそれ、第三は客體相互の間におけるそれである。自然的生より文化的生への上昇は第一の實在的他者性よりの離脱であるが、そのことは又同時に第二第三の他者性の發生でもある。後の兩者の間では第二即ち客體そのものの他者性が根源的である。客體性に本質的に具はる他者性は、更に客體面において客體内容同志の間における一と他との關係を惹き起すのである。さて客體性に對する主體性は隱れたる中心實在的中心である。この中心が客體的他者性においてそれを質料となしつつ自己を顯はにする。かくて客體は自己性と他者性との兩面兩契機より成立つに至る。しかるにこれら兩者の分離は單にそれだけでは留まり得ない。すなはち兩者は單に客體面に内在し潛在する構成的要素であるに止らず、むしろそれであるがゆゑに、それ自身顯在的とならねばならず、かくて客體面において自己性と他者性との相區別される二つの領域として顯はにならねばならぬであらう。譬喩的に言ひ表はせば、自己性と他者性とは、反省によつて先づ成立つ客體面の、いはば表裏相重なる二つの層をなす。しかるにこれら二つの層が分離した以上、客體面はいかばかり薄くあらうとも、實は厚みがあり奧行があり立體的なのである。そのままに留まつたならば、裏にある層は全く隱れたる存在を保たねばならぬであらう。それ故この裏面が表面へ浮び出で從つて内容に内在する兩契機がともに表面化し客體面における二つの異なつた領域として顯はになり、他者性は客體内容同志の間における聯關となることが、客體成立における必然的なる第二歩でなければならぬ。客體面は、表裏兩層の存在とそれによる緊張とにより、又そのことの歸結として、裏面が表面に進出しようともがくことによつて、穩かなる滑かなる平面的存在を持續し得ず、彎曲を見動搖を來すを免れぬ。これが即ち活動である。さて觀想の目指す所は客體面の凹凸を矯正して純然たる平面に還元するに存する。しかしながらこの事は果して又いかにして成遂げられるであらうか。客體が、たとひ觀らるべきもの顯はなるべきものとしてにせよ、主體と對立してゐる間は、それの純粹なる平面的存在は望み得べきでない。それ故一旦活動の性格の克服へと發足した主體は、更に一切の他者性の克服へ歩みを進めねばならぬであらう。すなはち主體は、自己を表現し盡し殘る隅なく顯はとなることによつて、全く客體のうちに融け込み、逆に客體は他者である
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