I特徴である。第四、時間性は主體と實在的他者との直接的關係交渉において成立つものとして、一方まつしぐらの沒頭を、他方主體性の本質をなす自己主張に加へられる拘束を意味する。これは主體が自己の任意なる自由なる決意や努力により取除かれ得る事態ではない。いかにとも致方なきいはば宿命的事態である。第五、生ずるは滅ぶるであり、有は無に等しく、生の意味の實現も達成されず、一切が果無き幻にをはる處、しかも主體がこの事態を自らの力をもつていかにともなし得ぬ處、には生の意味の否定、幸福の喪失、空虚の感、不安哀愁落膽等は避け難き歸結である。「永遠」は時の克服である限り生のこれらの特徴の絶滅を期せねばならぬであらう。
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(一) Lotze: Metaphysik. II, 3 參看。
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第二章 文化及び文化的時間性
一 文化
五
自然的時間性を根源とし基體として文化的時間性は成立つ。この時間性を理解するため、吾々はいま道を文化及び文化的生の一般的基本的構造の考察へと取らねばならぬであらう。
文化は實在的他者との直接性における關係交渉よりの離脱、自然的生における沒頭・拘束・緊張よりの解放、を意味する。もと主體は獨立の中心を有しその中心よりして生きる存在者である。それの本質即ち主體性は實在性において成立ち自己主張として働く。かくの如き實在者としての主體が、等しく實在する他者にひたと行きあひ正面より衝突しまつしぐらに自己の貫徹擴張へと突進する以上、究極は他を滅ぼし自らも滅びる外に途はないであらう。主體の存在は他者への存在であり、他者との關係交渉を離れて主體性は成立ち得ぬが、自然的生における限り、他者への存在は徹底すれば實は事志に反して却つてむしろ自滅的存在となるのである。この難關を克服し他者の壓迫侵害より解放されて自由の天地に飽くまでも自己主張を續けようとする所に文化的生の本質は存する。それ故吾々の現實的生はいかに原始的であり幼稚であり低級である場合にせよ、存立を保つ限り、すでに何等かの程度何らかの形において文化を含んでゐる。自然的生は根源へ遡る理論的分析によつてはじめて到達され開示される基本的契機に外ならず、決して事實上單獨に存在するものではないのである。
文化的生における主體の解放及び自由は「客體」の成立によつて行はれる。主體の存在は飽くまでも他者への存在であり主體性は飽くまでも自己主張に存するが、今や實在者は他者の位置より退いてその代りに客體がその場處を占める。客體は實質上よりは觀念的存在者である。これはもと自然的生において主體の生の内容をなし又實在的他者の象徴であつたものが、この持場を離れ遊離の状態に入り他者として特異の存在を保ちつつ、いくばくかの隔りにおいて主體の前に置かれたものである。客體の分離は、その反面として、主體の分離である。主體と客體とのこの分離この對立が「反省」である。反省によつて自覺・自己意識は客體の意識とともに表面に浮び出る。かくて主體は「我」又は「自我」として成立つ。自然的生においては主體は實在的他者へ向つたまま前後左右を顧る遑がなかつた。文化においてそれははじめて寛ぎとゆとりとを得、自由と獨立とを樂しみつつ、自己の存在の主張貫徹に邁進し得るに至る。さてこのことはいかにして行はれるであらうか。このことを、從つて文化の本質を、理解するためには、吾々は客體の示す二つの面それの有する二重の性格を今少し立入つて考察せねばならぬ。
六
客體は客體としてもとより單純に主體に屬し單純に意識の内容をなすものではないが、觀念的存在者としては、それは實在者と異なつて遙かに主體に接近した位置に立ち、わづかに半ば獨立性を保つものである。それの存在は主體への乃至主體に對する存在である。すなはち、實在的存在者が獨立の中心として存在しその中心より生き働くとは異なつて、觀念的存在者はかくの如き獨立の中心を缺く。主體が實在者として飽くまでも隱れたる中心を守り自己を他者の所有に委ねるを拒むとは異なつて、客體は觀念的存在者として隱れたる中心と奧行とを有せぬ平面的なる顯はなる存在者である。それの存在は主體の中に取入れられ、主體のもの、主體の自己に屬するものとなつてはじめて安定を見る。いはば宙に浮いた存在である。顯はなるものとしてそれは觀らるべきものである。すなはち主體のそれに對する態度は結局觀想(Kontemplation)でなければならぬ。
客體は觀念的存在者であると同時に他方又他者である。それに對して主體は自己主張をなす。しかしながら實在的他者に對しての場合と異なつてここでは主體の自己主張は、客體の有り方の特異性に應じて、他者を排斥しつつ自己を貫徹しようとする形を棄て、他者において隱れたる自己を顯はになしつつ自己を實現する働きとなる。自己實現こそ文化的生の基本的動作である。ここより觀れば、主體に對してそれの顯はなる自己即ち現實的自己となることによつて客體の任務は果されるのである。すなはちそれの他者性は可能的自己性に存する。さて主體の自己實現は隱れたるものを顯はになし、實在的中心より觀念的存在の明るき周邊へ表へと自己を表はし出す動作である。これは「表現」と名づくべきであらう。文化的主體性が自己表現に存するといふことは吾々がライプニッツの天才的洞察に負ふ眞理である(一)。尤も彼はこれをあらゆる實在者、換言すれば中心を有し中心より動作する――しかして傳統に從つて彼が實體と名づけた――一切の存在者に推し廣めたが、このことも、後の論述で明かにされるであらう如く、客觀的實在世界の認識が現に實行しつつある所を形而上學的原理の地位に高めたに過ぎないのである。
客體は主體の表現としてのみ他者的存在を保つ。このことによつて客體的存在者相互の間にも同樣の關係が成立する。客體内容は相互には他者の間柄に立つが、各は主體の自己表現であることによつて、更に一が他を表現するに至る。かくてここに客體の世界に固有なる一事態が發生する。すなはち、客體は觀念的存在者として、實在的存在者としての主體との關係に立つが、そのことによつてそれは更に「意味」としての性格を擔ふに至る。意味には、内なるもの乃至隱れたるものを表はし出すといふこと、次に共通の中心によつて統べ括られることにより互に共通性乃至聯關を保つこと、がそれの本質的特徴をなす。全く孤立したるいはば一點に盡きる客體は、他者を離れたる主體と同じく、抽象乃至空想の産物に過ぎぬであらう。意味の無き客體は暗黒に等しく、もはや表現の任務を果し得ぬとともに、又觀らるべきもの觀想の對象でもあり得ぬであらう。かくの如く客體は主體によつて支へられつつ中心を有することによつて意味を獲得するが、又逆に主體も客體において表現を遂げることによつて單に隱れたる暗闇の存在にをはるを免れる。かくて主體は隱れたる中心に立ちその中心より生き又働くに相違ないが、顯はなる觀られ解される存在、意味ある存在を保つ限り、その存在は客體のそれに盡きる。客體及び客體的聯關、意味聯關、を離れて主體そのものを捉へようとする企てはすべて徒勞に歸せねばならぬ。主體の自己表現として客體は徹頭徹尾主體を代表する。
尤もこれは客體が表現の任務を成遂げそれにおいて主體の自己が現實性に到達した限りにおいてのみ起る事態である。しかもかくの如き事態は決して完全に事實とはなり得ぬのである。客體は主體の表現ではあるが同時にそれに對して他者の位置に立つ。他者である限り客體は主體に對して單に可能的自己であるに止まる。それは、それにおいて主體の自己が實現さるべきものとしての、換言すれば、その自己實現に對する質料としての意義を擔ふものである。しかしながら純粹の可能性に盡きるとしたならば、顯はなる自己は全く姿を消し從つて客體も存立を失ふであらう。それ故客體はあくまでも形相及び現實性の性格をあはせ保たねばならぬ。かくして客體の成立從つて文化的主體の成立のためには、一方において自己性と現實性と形相と、他方において他者性と可能性と質料と、の兩者は缺くべからざる本質的契機としていつも共に具はつて居らねばならぬ。一方のみの徹底は結局一切の壞滅を意味するであらう。今他者性を徹底させるならば、それは實在的他者性に逆轉し、文化は自然的生及びそれの自滅の墓に葬られるであらう。之に反して自己性を徹底させるならば、自己を實現し盡して全く表面化した主體は、働きの向ふ先の他者と同時に働きの發する中心をも失ひ、實質なき夢の如く幻の如く消え失せるであらう。他者を失ふことは主體にとつては等しく死を意味するであらう。
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(一) ライプニッツは exprimer 又は 〔repre'senter〕 といふ語を用ゐた。
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七
客體の二重性格より來る文化的生の構造を正しく理解するために、吾々はここに「表現」と「象徴」とを特に區別しようと思ふ。これら二つの概念は必ずしも相背くものではない。むしろ半ばは相蔽ふものである。考へやうによつては表現は象徴作用によつて行はれ、象徴は何ものかの表現であるとも又すべての表現は象徴であり逆にすべての象徴は表現であるとも言ひ得るであらう(一)。共に表はす作用(表現)とも指し示す作用(象徴)とも名づけ得るであらう。共に一と他との二つの契機を含み、相分かれるものと相通ずるものとの二つの面を有する。しかしながら今吾々は表現においては特に同一性の契機を、象徴においては特に他者性の契機を強調しつつ、兩概念の適用の領域を特に區別することによつて、別つべきを別ち明かにすべきを明かにしようと思ふ。
前にも述べた如く「表現」は全く主體の勢力範圍内に留まつてゐる。それは顯はとなつた主體の自己であり、動作として解すればこの自己を顯はにする動作である。そこになほ殘留する他者性は客體のそれに過ぎず、從つてむしろ可能的自己性を本質とする。尤も主體は隱れたる中心として儼然存立するに相違ないが、表現の主體である限りそれは完き自己を表面に現はし盡し、かくて自滅を遂げることによつてはじめて行くべき處に行き着くのである。幸ひにかくの如き自滅を免れるとしても孤立は到底避け難き歸結である。文化においても主體は事實上實在的他者との關係交渉を全く離れることはない。しかしながら文化が文化である限り實在的他者は本質上不用である。ここでは主體の直接の對手は、實在的他者に對して遊離状態に置かれたる客體であり、主體の自己を顯はにすることにそれの存在の意義は盡きる。このことは客體の基體をなす實在者が「物」と稱せられる場合にのみならず「人」と名づけられる場合にも等しく當嵌まる(二)。文化においては我と他の人との共通なる生内容共通なる客體世界は建設され維持されるが、「我」と「汝」との間に成立つべき實在者間の關係、嚴密の意味の人格的關係、はここでは無きに等しい。假りに我以外人と稱すべき何等の實在者もないとするも、原理的に考へれば、文化はなほ存在し得るのである。文化の世界に現はれるであらう他の人は、自己實現自己表現がそれにおいて行はれる質料としての客體に過ぎぬ。それの原理的性格よりみれば、それは單なる「物」であるに盡きる。内在性乃至孤立性はかくの如く表現乃至それの主體の本質的特徴である。ライプニッツの「モナド」(單子)の説はこの事態の極めて明瞭且つ適切なる言表はしといふべきであらう。文化の世界においては主體は「窓無き」モナドなのである。このことはヘーゲルの如く主體を「絶對的精神」にまで擴大した場合にも變りが無い。文化は飽くまでも自己實現であり表現であり、從つて根柢においては内在的動作、主體を孤立に導く動作である。そこには主體に對立する嚴密の意味の他者即ち實在的他者は存在しない。總じて文化主義は形而上學にまで發展する場合には汎神論への道を取る傾きがある。絶對的主體即ち所謂神に對する他者はその
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