ナある。その限りむしろ喜びの體驗といふべきである。その限りそこには無の契機は全く見出されない。それ故將來を無造作に「未來」と呼び替へるのは、それの根源的性格の理解の上からは、當を得たといひ難い。過去と結び附けそこよりしてそれの意義を解釋することによつてはじめて將來は未來となるのである。すなはち「未來」は「將來」に對してむしろ派生的觀念である。將來が未來となり來るものが無より來るものとなるのは、現在即ち存在が絶えず流れ去つて同じ現在として止まることがないからである。何ものかがそれへと向ひ來る現在は、その何ものかが、それに來り着く現在とは異なつてゐる。一つの今へと向ふものは他の今に到着せねばならぬ。更に言ひ換へれば、過去あるがため現在はそれに向つて來る將來にいつまでも出會ひ得ずに去るのである。將來を未來たらしめる無の契機は將來そのものに本來具はるのでなく過去が提供するのである。すなはち過去による現在の流失と存在の喪失とを補ふべき任務を有する限りにおいて將來が未來となるに過ぎぬ。それ故將來は必ずしも未來ではない。若し滅びぬ現在無くならぬ今――即ち永遠――が成立つたと假定すれば、そこで先づ姿を消すは過去であるが、未來も過去と運命を共にせねばならぬであらう。しかも、後の論述の明かにするであらう如く、將來はそこでもなほ現在の維持者として依然その存在を續けるばかりか、むしろ滅びぬ存在の源として新しき意義に輝くであらう(四)。
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(一) Aristoteles, Physica. 217b seqq. においてすでにかくの如き論難に出會ふ。
(二) Confessiones. XI, 14 seqq. 總じてアウグスティヌスの時の論は觀點と所見とを異にするものも尊敬と感謝とをもつて仰ぎ見るべき劃期的業績である。
(三) このことをはじめて明かにしたのはプラトン(「ソピステース」篇において)の功績である。
(四) 今日わが國の學界においては「將來」を無造作に「未來」と呼ぶことが殆ど流行といつてもよき程廣く行はれてゐる。これは自省すべき、場合によつては、斷然改むべき不穩當なる習慣である。「將來」と「未來」とが實質的に一致する場合においても、前者は單純な積極的な正面より見ての言ひ表はしであり、後者は裏に※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]はつて主として事柄の含みを見ようとする派生的態度の所産である。言語上の表現について觀るも、「將來」は「來らむ」「來らば」などによつて代表される動詞の形――文法學上「將然段」と呼ばれる形――によつて直接に單純に言ひ表はされ得るが、「未來」を言ひ表はすためには何らかの副詞を附け加へることが必要である。同じ事態はギリシア語の to mellon ラテン語及び近代諸外國語の futurum においても明かに見られるであらう。
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        三

 以上の諸點を從つて時の眞の姿を更に立入つて理解するため、今それを存在論的に主體の存在におけるそれの意義の觀點より考察すれば、吾々は時が現實的生即ち自然的文化的生における主體の基本的構造であるを知るであらう。時間性は人間性の最も本質的なる特徴である。主體の存在は他者への存在である(一)。それは他者との關係交渉において成立ち又維持される。しかるに一切の存在の基礎を置くものは自然的生である。「自然」(phusis)といふ語はギリシアの古へにおいては基本的根源的存在の意に用ゐられ、かくて人爲的作爲的なるものの反對を意味するに至つた。ありのまま・單純・直接等の意味あひはそれに附隨する。吾々が今自然的生と名づけるものにおいては、實在する主體は實在する他者と直接的なる關係交渉において立つ。かくの如く生きるのが生の最も基本的根源的姿である。この土臺の上に文化的人間的生は建設される。生が上の段階へ進むにつれて時間性も幾分の變形を見るであらうが、本質的姿を決定するものは自然的生である。ここよりして時間性が人間性の地盤にいかに深く根を張つてゐるか、いかに強く殆ど宿命的に生の性格を色づけてゐるかは理解されるであらう。
 主體は實在するものとして飽くまでも自己の存在を主張する。すなはち他者に對して自己の存在を維持し更に擴張しようとするのがそれの本質的傾向である。さてかくの如き傾向を有する實在者の直接性における交りとして、自然的生は次の二重的性格を示す。主體はそれとの關係交渉に立つ他者が無くしては虚空に飛散消失して壞滅に歸せねばならぬゆゑ、即ちそれの行くへを遮つてそれに抵抗を與へ緊張を促しつつそれの自己主張を誘發する實在者を俟つてはじめてそれの實在性は維持されるゆゑ、――しかして更に主體の生内容はかかる實在的交渉に際して他者を意味し代表するそれの象徴としてのみ成立つゆゑ、――實在的他者は主體にとつて實在性及び生の内容の、從つてあらゆる存在の、維持者乃至供給者であるといはねばならぬ。しかしながら他面において、自然的生は實在者と實在者との直接的なる從つて外面的なる接觸乃至衝突であるゆゑ、主體にとつてそれは他者よりの壓迫侵害であり、又存在の喪失である。自然的生を生きる限り主體は存在を獲得しつつしかも同時に喪失する。ここでは生ずるは滅ぶるであり來るは去るである。
 自然的生のこの絶え間なき流動推移においてこそ時及び時間性の最も基本的の姿即ち自然的時間乃至自然的時間性は成立つのである。「現在」は主體の自己主張に基づき生の充實・存在の所有を意味するものとして中心に位しそこよりして時の全體を包括する。之に反して「過去」は生の壞滅・存在の喪失・非存在への沒入である。しかしてこれら兩者を成立たしめる主體と他者との接觸交渉に對應するものが「將來」である。將來は絶えず流れ去る現在絶えず無くなり行く存在を補給しつつ維持する役目を演ずると同時に、又それの過去への絶え間なき移り行きの原因ともなる。將に來らんとするものはいつも來つて現在となりつつ、しかも他方それの向ひ行く現在にいつまでも出會ふことなしにをはる。將來と現在との間に存するこの矛盾的關係は畢竟主體と他者とが生及び存在の眞の共同に達し居らぬことを指し示す。後に説くであらう如く、永遠性における時間性の克服は主としてこの點に手掛かりを見出すであらう。
 吾々の見解は歴史的瞥見によつて一段の力を添へるであらう。アウグスティヌスの「時」の論はこの題目について思索する何人も研究の出發點となし又終始指導者となさねばならぬ劃期的業績である(二)。時の實在性が「現在」に存することを承認しながら、その現在が延長を有すること一定の内部的構造を具へてゐることを洞察して、根源的體驗における時の眞の姿を明かにしたのは彼の不朽の功績である。かれは時を精神の延長(distentio animi)と呼び、これを、現在が單純無差別なものでなく、將來と過去とを包括することに置いた。すなはち彼に從へば現在は三つの樣態乃至契機より成立つ。時は主體の基本的なる存在の仕方であるゆゑ、これら三つの契機には主體の三つの基本的動作が對應する。すなはち現在は直觀(contuitus)將來は期待(expectatio)過去は記憶(memoria)において成立つ。云々。基礎的段階をなす自然的時間とそれの上に建設される文化的時間との區別に、アウグスティヌスが想ひ到らなかつたことは確かにこの説の缺陷である。「期待」は自然的時間における將來に對應するとして許されようが、「記憶」は、後に論ずる如く、文化的歴史的生の段階に屬する働きである。しかして文化的生が自然的生よりの解放の企圖を意味することを思へば、上述の如き缺陷と聯關して、かれの説いた「時」が單純孤立の状態にある主體の生き方を意味するに過ぎなかつたことは、當然の事態といふべきであらう。彼は將來が、實在的他者との關係交渉において自己の存在を維持する人間的主體の生き方を示す、といふ眞理を認識し得ずにをはつた。彼が永遠を時と單に區別し對峙せしめるに止まつて、それとの活きた聯關において眞にそれの克服者として理解し得るに至らなかつたのも、同一缺陷の發露である。
 ベルグソン(Bergson)の才氣溢れる「時」の論において吾々は、派生的第二義的意義しか有せぬ表象より根源的體驗において與へられる時の根源的姿に立戻らうとする、正當なる努力を認める。彼が實踐的目的に向ふ、從つてその意味において將來に向ふ、主體の動作を根源的體驗より遠ざけようとしたことも、今それに聯關する特色あるかれの形而上學的所信を考慮の外に置くならば、文化的時間を第二義的のものとする點においてたしかに正當である。又同樣にかれの形而上學を離れて考へれば、かれが時を「持續」において成立つとしたことも又時における内容の融合滲透を説いたことも、空間的に表象される客觀的時間より特に體驗的時間を區別し後者の根源性を強調しつつ、それの延長性それの内部的構造を主張したものとして、識見の卓拔を思はしめる。しかしながら彼が根源的體驗における時より將來を抹殺したことは勿論謬見である。そのことの結果として「持續」は過去と現在とのみより成立つものとなる。この場合過去は正しき順序を顛倒して現在に先立つもの從つて後者に對して存在を補給するものとなる。すなはち過去の内容は現在のそれと融合滲透を遂げつつ持續換言すれば包括的現在を成立たしめる。過去の内容は記憶に俟つ外はない。かくては持續としての時は文化的時間より將來を取除いたものに過ぎぬであらう。さてすべてこれらの事どもはいづこに源を有するであらうか。いふまでもなく、主體が單獨孤立の立場に置かれたことが一切の誤謬の原因である。持續を體驗する主體は、他者への生に沒頭する本來の態度を置き棄て、自己の姿を自覺の鏡に寫さうとする反省の位置に退いてゐる。認識の方法は直觀といはれてはゐるが、これは抽象的思惟を却けるだけのもので、根源的體驗に比べてはすでに反省の立場に移つてゐる。
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(一) この點に關しては拙著「宗教哲學」及び「宗教哲學序論」の諸處、並びに本書第七章一參看。
(二) Confessiones. XI, 14 seqq.
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        四

 以上述べ來つた時及び時間性の本質的構造よりして吾々は、永遠性との對立及び聯關において觀られる場合特に重要性を發揮する諸の特徴、時間性の形式的特徴ともいふべきもの、を導き出しつつ理解し得るであらう。第一は時の方向である。時の方向は將來より現在を經て過去へ向ふとも、又反對に過去より將來へ向ふとも考へられる。この矛盾は時の觀念の中に伏在する問題を示唆するとしての意義はあらうが(一)、その問題は、後の論述の明かにするであらう如く、時間性の異なつた段階を區別することによつてのみ解決を見る。自然的體驗的時間即ち時間性の最も基本的根源的姿においては、方向は將來より過去へと向ふ。しかもこの方向は斷然動かし得ぬものである。過去になつたものは無に歸したものである。單純率直なる非存在である。無くなつたものは取返へしのつかぬもの、主體の處理の手の屆きかねるもの、この意味において絶對的なるものである。昔を今になる由もないのが時の本然の姿である。ここに時の「不可逆性」(Unumkehrbarkeit)は成立つ。要するに有より無へ存在より非存在へ向ふのが時の最も根源的方向時間性の最も本質的性格である。
 次に、時間性は無常性と可滅性とを意味する。時と時における存在とは、絶え間なき流動推移の中に有より無への方向を取りつつ、息みもせず振返へりもせず、ひたすらまつしぐらに壞滅の道を進む。以上と聯關して第三に、時間性は斷片性不完成性を意味する。時間的存在はいつも滅びつつある從つていつも缺乏に陷りつつある存在である。現在において主體は自己の存在を所有はするが、その所有は直ちに喪失であり、その存在はいつまでも確保されるに至らない。いつも完きを得ずいつも自己の所有に達せずいつも斷片的なのが時の本質
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