み行はれる。身體は象徴による共同の行はれる場處又は通路である。人格の意味における人と人との交はりは廣き意味の言葉を通じてのみ行はれる。顏色・身振り・目・耳等は人格的共同の最も重要なる器官である。身體の交はりを通じてのみ人格の共同は行はれるのである。それ故「身體の甦へり」は人間の人格としての復活を意味する。精神の意味における靈魂の不死性の觀念は人間學的に誤れる乃至甚しく不十分なる理解に基づくといふべきである。しかしながら、すでに述べた如く、靈魂は原始的段階においてはむしろ全き人間を意味した。それは決して身體なき人ではなく身體を具へた人自身である。ただ生前と異なつた存在の仕方をなす相違があるのみである。尤も今日の文化人より見れば、生活と運動とを止め腐敗に進みつつある身體を傍らに眺めながらなほ身體を具へた人間の存在を信ずるは不合理のやうに思はれようが、原始人はかかる論理的困難には思ひ附かず又累はされもしなかつた。且つ輪※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]の思想を抱く宗教者や靈魂の不死性を説く哲學者たちにおいても、身體を離れたる靈魂は實在性において不完全なのではなく、むしろ完全となるのである故、人間學的見解の正否を別とすれば、等しく全人格を意味するともいひうるであらう。かく考え來れば、身體が來るべき完全なる永遠的存在に與かるか否かは第一義的重要性をもつ問題ではなくなる。根本問題はむしろ死の意義如何に存する。吾々は死を生の壞滅・存在の非存在への沒入と解した。死は人間的主體が存在を續けつつ一つの有り方より他の有り方へ移る轉向點ではなく、全く無くなること無に歸することである。かかる意義を有すればこそ、それは時間性の徹底化であり罪の報いであり、又反對に、罪の赦しの現はれ惠みの働きでもあり、時間性より永遠性への轉向點でもありうるのである。しかるにキリスト教の思想家たち(二)が最近まで取り來つた如く、生の壞滅存在の歸無としての死の理解を避ける態度を取るならば、たとひ復活の思想を主張したとしても、靈魂不死性の思想に踏み留まると五十歩百歩の相違に過ぎぬであらう。それらの人々はプラトン風に死を靈魂と身體との分離と解し、身體は崩壞するに拘らず靈魂はそのまま存在を續けると考へた。靈魂の死後の存在の仕方については、或るものはそれを天において神を見神を樂しみつつ送る淨福の状態と解し、他のものは知覺を失つた一種の睡眠状態と解したが、かかる相違は根本問題の前には殆ど取上げるに足らぬ些事である。彼等はかくの如き相違以上には等しく一旦崩壞に歸したる身體の新生への復活を説くも、人格の中心が靈魂に置かれてゐる以上、これも同樣些事であるを免れぬ。或る學者(三)は存在と生とを從つて又非存在と死とを區別し、死は生の亡夫であつて存在の亡夫ではないと論じ、死を存在の仕方の變化とする見解に飽くまでも執着してゐるが、一見いかにも尤もらしく聞えるこの辯解も、存在を客體的存在と解し、主體的存在としての生をそれより區別し、むしろその類概念の下に包攝される種概念として取扱はうとする立場を暴露するだけであつて、詭辯でないまでも強辯であるを免れぬ。ここにはかくの如き無造作な形式論理的處理を許さぬ重要な問題が宿つてゐる。存在と生とは概念としては勿論二つであつて一つではないが、根源的生まで遡れば、實質においては全く一に歸する。又永遠が、無時間性におけるが如く、觀想の對象をなす靜かな存在ではなく、愛として生の共同としてのみ成立つことはすでに述べた通りである。吾々は死を生及び存在の亡失となす見解を飽くまでも堅持せねばならぬ。このことによつて時より永遠に亙る死の嚴肅深刻なる意義ははじめて貫徹されるであらう。
 以上の如く、死後の生に關して歴史的に與へられたる表象のうちでは、復活が最も卓れたるものであるに相違ないが、それは一旦無に歸したるものが無の中より新たに有へ呼戻されるといふ意に解されねばならぬ。言ひ換へれば、死後の生は創造によつてのみ可能である。しかしてこのことは、事新しくいふまでもなく、惠みの賜物であるを意味する。靈魂不死性乃至それに類する死後の生の思想において根本的誤謬と認むべきは、人間的主體が、或はそれ自らに内在する本質の單獨の力により、或は客觀的世界乃至それの背後に立つ神の聰明有力なる援助により、いづれにせよ自らの力によつて、死に打勝ちつつ固有の存在を繼續するとなす點に存する。この思想の根源を突止めれば、有はあくまでも有であり、自己はあくまでも自己であり、他者と相容れず無を斥けるといふ自然的文化的生並びにそれの惡しき有限性と根本惡との立場に還元される。この立場即ち現實的生の立場に立つ以上、有が底の底まで無であるといふこと、自己が殘る隈なく他者の象徴となるといふこと、は考へ難き事である。永遠の光に照されぬ以上、考へ難き事を有り得ぬ事として排斥するは當然である。しかもこの不可能事が事實として起るのが惠みである。すでにこの現實的生においても愛の啓示はかかる不思議かかる奇蹟であつた。その奇蹟の徹底化、永遠そのものの、屈折による閃きだけではなく、目のあたり見る否全身をもつて浴びる光の直射が死後の生なのである。復活は徹底的創造に外ならぬ。自然的文化的生においても、惡しき有限性即ち他者を斥ける自己主張においてさへも、創造が隱れ濳んでゐた。信仰と愛とにより啓示に身を打任せることにおいて、無より有への轉向は隱されつつも姿を顯はにした。來るべき永遠においてそれは純粹に完全に徹底的に顯はになるのである。かくの如く言ひ表はすのがすでに時間的前後の型に從ふ譬喩的表現であるが、今更に大膽なる一歩を踏み出して、前後を通じての繼續從つて同一性について語るべく試みるならば、それは、不死性の思想が誤つて考へた如く、人間的主體の側にあるのではなく、ただ獨り神の側にのみあるのである。神の眞實《まこと》、何ものにも打勝ち何事をも貫徹する神聖者の主體性・人格性こそ萬事の本であり源である。
 ここにこそ吾々は人間的主體の主體的人格的同一性の根源を見る。主體の同一性は現實的生においてもすでに直接的體驗を超越する事柄である。主體の自己性は客體内容の聯關において又それを通じての外には把握されぬ。内容は主體に對して他者であり又相互に他者である。主體は先づ客體としての他者において、しかして更に客體内容の聯關において自己を表現する。かかる表現において又それを通じての外に自己性の成立つ場處はない。これはすでに述べた通りである。しかるに自己表現(實現)は主體の活動であり、活動としては時間性の性格を擔ふ。主體が現在に生きつつ過去を現在に呼び出すことによつて活動は行はれる。そのことをなすのは囘想である。囘想なしには自己性の把握從つて自覺は行はれぬ。具體的にいへば、アイ……の系列において、イをそれに先立つアとの聯關において把握するためには、無に歸したるアは有として再生されねばならぬ。しかるにこのことは更に、無に歸したものと今現に有であるものとの同一性從つて反省より體驗への復歸――いはば先驗的囘想――更に又それの根源として主體の同一性――先驗的同一性――を前提する(四)。この先驗的同一性が結局囘想即ち無よりして有の發生の前提であり根源である。囘想は二樣の、即ち經驗的と先驗的との二樣の形において客體内容の意味聯關の制約である故、吾々が經驗的に客體内容の聯關において又それを通じて主體の自己性從つて同一性を把握しうるのは、一切の根源に先驗的と名づくべき同一性が濳みながら存在するからである。この主體性こそ過去の無を克服して現在の有となし、かくて又自然的生と文化的生との從つて體驗と反省との内面的聯關を可能ならしめるのである。ここに吾々はすでに神の主體的同一性と創造的動作との朧げなる啓示を見るであらう。その啓示は更に自然的文化的生の主體と愛の主體との同一性において一層顯はとなる。吾々は時間的生を生きながらすでに永遠の光を反映しうるのは、愛の主體としての神の同一性、神の眞實《まこと》によるのである。死は時間的生の主體の壞滅を意味する。生はここに決定的段階に達する。しかもその壞滅より無の眞中より新たに永遠の生に生れる主體はすでに死したる主體と同一なのである。この世における存在の保存がすでに創造であり惠みであつた。ましてや彼方の世に新たに生れる主體の同一性は惠みの最も深き最も大なる發動でなければならぬ。かくの如き神の眞實《まこと》に答へる人の眞實《まこと》が愛である。その愛がこの世の曇りに光を失ひつつしかも信頼として現在に輝くのが信仰、期待として行くへを照すのが希望である。人格の同一性は主體が本來無造作に所有する性質又は資格ではなく、この世においては、人間の側よりみれば、ただ渾身の努力をもつてわづかに接近しうる理想である。しかもその努力その理想そのものがすでに神の惠みの賜物なのである。
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(一) キリスト教においては、中世以來ギリシア哲學の影響のもとに本文の二つの觀念は混同され、學者は靈魂不死性の論證をさながらに踏襲することによつてキリスト教的信仰の確保を計つた。兩者の根本的相違に學者が氣附いたのはやつと近時の事である。次の諸書參看。C. Stange: Unsterblichkeit der Seele (1925) . S. 121 ff. ―― Ders.: Das Ende aller Dinge (1930) . S. 122 ff. ―― P. Althaus: Die letzten Dinge4[#「4」は上付き小文字] (1933) . S. 110 ff.
(二) Althaus: Die letzten Dinge (1933) . S. 135 ff.
(三) R. otto: 〔Su:nde und Urschuld (1932) . S. 87.〕
(四) 一〇節、一一節參看。
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        四九

 さて、顯はになつた永遠、到來した死後の生の内容はいかなるものであらうか。宗教的構想力は、すでに論じた時と永遠と、こなたの生とかなたの生との間に存する三重の關係、いはば永遠の形式的性格の指し示す線に沿うて動かねばならぬ。永遠的生は時間的生に對して、第一にそれの根源であり、次に克服であるが、更に最後に完成である。時間的生においてすでに永遠的生は内在する。そこで蒙るあらゆる歪曲、そこで出會ふあらゆる抵抗にも拘らず、それはすでにそこに啓示され、すでに生の性格を更新してゐる。吾々は同じ方向の究極的完成・徹底的純化を目標となしうるであらう。尤も目標が目標として、現にこの世にある吾々にとつては、なほ到達されぬ彼方のものであることは、常に嚴格なる警戒と自己批判とを要求するであらう。
 死後の生永遠的生の核心をなすは、神の愛に基づく人の神へ並びに人への愛、神と人との又人と人との共同、創造者と被創造者とを成員とする聖者の交り、でなければならぬ。そこではこの愛の共同を妨げ濁らせるであらう何ものももはや存在しない。自己乃至自己表現は底の底までも他者の象徴となり、自己性と他者性との完全なる合一が成就される故、一方なほ實現を要する自己性も、他方なほ自己性の外に殘る他者性も無い。生は他者の源より發して少しの淀みもなくまた他者へと流れ戻る。全き自己が他者のものであるとともに全き他者は自己の所有に歸する。生はあり生の共同や往來はあるが、それらはこの世の活動におけるが如く妨げや躓きや又缺乏や努力やを知らぬ。あらゆる媒介性は全く影をひそめてただ直接性のみ殘る。しかもその直接性は勿論自然的生におけるそれでなければ、又觀想において目差されるそれでもない。永遠における人の神への生は古へより「神を見る」と呼ばれてゐる。しかしながらその「見る」は、人と人とが相見る場合にしかいふ「見る」の類であつて、物を見る場合のそれとは根本的に區別されねばならぬ。すなはち、客體内容を聯關をたどつて從つて媒介を通じて見るのでなく、又直接に見る即ち
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