直觀する場合の見るでさへもなく、主體と主體と人格と人格とが、双方を結び附けつつ同時に隔て遮るであらうあらゆる中間的媒介的存在者を排除して、直接的なる交はりと共同とに入り乃至留まる場合の「見る」である。あらゆる文化的活動はいふに及ばず信仰と希望とさへも消え失せてただ獨り殘る完全なる愛の人格的共同が譬喩的にしか呼ばれるのである。尤もかくの如き人格的共同においては、表現と象徴とは全く一に歸する故、一切は顯はとなり透明となり、主體は一切を通じて一切を直接に知るであらう。譬喩的表現はいふに及ばず、あらゆる思惟も推理も姿を消して完全なる知り方としての直觀のみ愛の共同の一契機としては殘るであらう。さて、かくの如き一切の一切との完全なる共同においても創造者と被創造者との別は消え失せぬであらう。それどころか、すでに述べた如く、この別が儼然として正しく明かに存立することが人間的主體の眞の有限性であり、かかる有限性においてのみそれの永遠性は成立つのである。死の恐れも罪の悔いもなく、しかも希望と信仰とさへも時間的世界に置き棄てられたこの處では、有限性は受ける惠みへの感謝と充ち足れる賜物の喜びとして顯はになりつつ留まるであらう。完全なる純粹なる愛と感謝と歡喜――ここに永遠に生きる者の盡きぬ淨福は存する。
 死後の生は時の終りの世である。それは單獨なる存在ではなく、相共にある存在、即ちその意味においてすでに世界である。この新たなる永遠の世界は時の終りにおいて時間的存在が完全に克服されてはじめて現はれる。人間的主體が死を經てはじめて永遠の生に甦る如く、世界もまた終末に達せねばならぬ。死は單に主體そのものを見舞ふばかりでなく、主體が相共にある一切の時間的存在者の共通の運命である。この現實的世界は自然的文化的生の全體並びにそれのうちに含まれる乃至それと聯關する一切の存在を包括する。人間の世界即ち文化の世界と、人間的及び文化的より特に區別されたる意味における自然の世界と、がそれの内容である。時の終りに顯はになるべき永遠への希望は當然文化及び自然の世界の運命について關心を呼ぶであらう。滅びる世界ははたして新たなる存在に甦るであらうか。人間的主體とそれの共同とに關して與へられたと同樣の答はここにも與へられねばならぬ。世界は創造の惠みによつて滅びるであらう、しかして更に新たなる存在をもつて死の中より生れ出るであらう。これは、世界が人間的主體とすでに時間的存在において共通の運命を分かつてゐることより、當然期待しうる事柄である。先づ死についていへば、時間性は文化の世界並びに自然の世界の心髓にまで蟲食んでゐる。壞滅と死とは兩者の行くへに待ち構へてゐる。尤も文化を死より救はうとする企てはしばしば哲學によつて試みられた。その最も有力なる又根本的なるものは無時間性の思想において見られる(一)。すでに詳しく論じた所をここに繰返すを止めて要點をかいつまんで言へば、この思想は、文化の内容より時間性と從つて主體性と聯關する要素を出來る限り取除いて殘つた所を純粹客體として遊離せしめ、かくの如きものの存在の仕方において永遠性を見出さうとするものである。これは文化的主體が一時我を忘れて夢幻の世界に遊んだ如きものであつて、主體そのものが儼然として存立せねばならず、しかして時間性可滅性がそれの本質をなす以上、純粹の空望に過ぎぬことは、すでに述べた通りである。文化的主體を離れては文化の内容は單なる分析的抽象作用の所産に過ぎず、それ自らの實在性など保ちうるものではないのである。第二は吾々がすでに無終極的存續の意味における不死性に聯關して論述した目的論的形而上學である(二)。これは第一とは逆に文化的主體そのものの自己主張・自己實現の活動より出發し、それが時間性の制限を克服して自己を貫徹する必然性を説くものである。その場合主體は單に個體としてではなく共同體として、しかして最も典型的なる形においては、人類として取上げられる。すなはち民族乃至特に人類の歴史は文化の實現の舞臺と看做される。尤も、共同體は個體に比べていかに力強くあるとはいへ、人間的主體が自らの力だけを恃んで自己主張自己實現を時間性の猛威に反抗して成就するといふことは餘りの誇大妄想とも感ぜられるであらう故、世界秩序・世界理性・攝理などの觀念的存在者が援助を與ふべく呼び入れられる。それらは主體性を離れてはイデアとして純粹形相として無時間的存在を許されるであらうが、單なる客體としては勿論何等の實力をも有せぬ故、それ自らの實在性を付與されねばならぬ。しかるに、ヘーゲルの名言の教へる如く、實體(Substanz)は主體(Subjekt)とならねばならぬ。人間的主體の後援者であるべき他者はかくして絶對的主體の位に高められる。それが哲學的形而上學にいふ神である。さてかくの如き神が眞に文化の擁護者、人間的主體の自己實現の原動力であるためには、單に自然的生の主體の意味において即ち自己主張の盲目的實力としてのみならず、又特に文化的主體の意味における、從つて觀念的内容において又それを通じて自己實現を行ふ主體でなければならぬ。無限的絶對的その他の尊稱によつて人間的主體とは區別されるであらうが、それの生内容・自己實現の内容をなすものは結局人間的文化そのものの内容に外ならず、ただ存在の仕方において優越性を許されるだけのものに外ならぬであらう。或は人間にそれの文化内容を與へる親切なる指導者と考へられようが、或は人間の文化の歴史において自己を表現し實現する絶對的主體と考へられようが、根本において本質においては、それは結局大型に引伸ばされたる人間の寫眞に過ぎぬであらう。時間性とそれの必然的歸結である死とを克服すべき實力はかかる主體には許され難いのである。かくしてその實力の源は主體性には求められず却つて内容に、時間性との交渉に入るに先だつてそれ自らの純粹の存在を保つ純粹客體に、イデアに、それの無時間性に、求められねばならぬであらう。神乃至絶對的精神即ち絶對的主體に對してはむしろ實體の地位を占める、無時間性の意味においてのみ永遠的なる、この Idee が、〔An und fu:r sich〕 に對するこの Ansich が却つて實力の源でなければならぬであらう。かくの如きものとしては Idee も主體性を具へ自己實現をなすものであらうが、それは結局主體性の觀念、觀念の自己實現に過ぎず、有限者の出現に先だつ神の覆はれぬ姿とも考へられようこの觀念世界も結局肉も血もなき單なる「影の國」(幽靈の國)に盡きるであらう。文化及びそれの歴史にそれ自らの永遠性、自らの力による死の克服を許さうとする企ては、かくして、悉く失敗をもつて報いられる。人間の文化・人間の歴史は時の終末とともに同じく終末に達し同じく死と壞滅との淵に溺れねばならぬ。
 然らば自然はどうであらうか。ここに自然といふのは、吾々が生の原始的基本的段階として論じた自然的生と親密なる聯關にあるが、全く同一ではない。それは實在者の世界において文化的主體性まで昇りえぬ一切のもの、從つて人間を除外した凡ての實在者の總體に通常與へられる名である。それとの交渉は勿論先づ自然的直接性において行はれるが、それ以上に出でて人倫的共同に入ることがないのがこの實在的他者の特徴である。文化にたづさはる限りそれは質料として物としての役目を務めるに過ぎぬ。人間的主體も文化的乃至人倫的主體として觀られぬ限り、即ち單にそれの自然的乃至客觀的實在性において觀られる限り、自然に屬する。吾々は自然と自然的直接性において接觸し、それの象徴として何等かの體驗内容を受取るが、この内容は反省の段階において客體に高められ更に實在的他者に歸屬せしめられ、かくして客觀的實在世界としての自然及びそれの認識は成立つ。その場合反省及び文化的存在へ昇りうるは主體のみであつて、他者は依然自然的實在性の段階に留まる。從つて自然は自由の無き強制乃至必然の支配する領域である。時間性と空間性とはそれの最も基本的なる特質をなす。かくの如き自然が時間性と共に壞滅に歸すべきは理の當然である。文化の世界が死の運命を免かれ得なかつたのも畢竟は自然的生がそれの土臺をなすからであり、自然は自然的生において主體に出會ふものである以上、人間以外の全き自然は、それの成員並びにそれら相互の關係の一切を携へて、壞滅の運命を文化と共にせねばならぬであらう。
 さてかくの如く世界は滅びるが、滅びたままには留まらない。それは新たに若き存在に甦へるであらう。これは無よりして有を呼び出す創造の惠みのなす所である。しかも人格の共同の場合と同じく、ここでも復活は同時に完成である。しかしてこのことはここでも一切が新たに創造されながらしかも同一性が保存されることを意味する。その同一性はここでも結局愛の主體としての神の同一性、神の眞實《まこと》、に基づく。この世の一切の時の終末とともにレーテー(〔Le_the_〕 忘却)の流れに打沈められて過去となる。それが無よりして有へ再生するのは、この世そのものの力いはばそれの記憶力によるのではない。この世は全く無に歸する。ただ神の根源的囘想の眞實《まこと》、愛の主體としてのかれの人格的同一性のみこの不思議をなし得るのである。時間性のあらゆる汚れを拭ひ去られて永遠の光に映え輝く若き新たなる天地が、それのうちにいかなる内容を包含するかは、殆ど全く想像をさへも無力にする。ただ次の事どもは或は言ひ得るであらう。この世においても、愛の光の輝く處では、自己實現を本質とする文化的活動もすでに神の言葉の實現を意味した。すべての存在の基礎をなす自然的實在者も永遠的實在者の象徴となつた。このことはかなたの世において徹底と完成とを見るであらう。自然の盲目的抵抗は神の尊嚴と榮光とに變はるであらう。この世の藝術や知識は滅びるであらうが、神の言葉があらゆる形容を絶したる美しき淨き姿として響きとして、わが永遠の耳目を充たすであらうことを誰が否定し得ようか。この世においては文化的生の優越性に應じて觀念が權威を揮つた。愛が又永遠的實在性が唯一の存在であるかなたの世においては、神の神聖なる囘想力は却つてむしろこの世において輕んぜられた具體的個體的内容に復活の優先權を許すやも計られぬ。この世のままなる人倫的關係はかの世においては滅びるであらう。しかしながらこの世においてすでに神意を傳へ得たものは、かなたの世において更に明かに力強く同じ言葉を語るのではなからうか。かの世にての再會といふが如き通俗的信念も、無造作に根も葉もなき迷信として貶すことは、この世の智慧を恃んで神の眞實《まこと》を裏切る業であり得ぬと、誰が言ひ切りうるであらうか。
 要するに、來らむ世においては、この世における人も物も、又人と物との交はりも、その形のままでは滅びる。しかしながら、それの内容は、從つて文化及び自然の内容も、永遠の囘想によつて無より有に呼び戻される限り、壞滅より救ひ出されて、一切であり又一切を包む無限の愛を、神と人と又人と人とを往來する滅びぬ生を、有らしめ乃至豐かにするものとなるであらう。
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(一) 二七節以下參看。
(二) 二五節、二六節參看。
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底本:「時と永遠」岩波書店
   1943(昭和18)年6月25日第1刷発行
   1967(昭和42)年6月30日第8刷発行
※(一)(二)等は注釈番号です。底本では、直前の文字の右横に、ルビのように付いています。
※底本では、「”」の二点は右下に、「“」の二点は左上に、置かれています。
入力:三木睦明
校正:松永正敏
2006年11月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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