れる器となり、信仰より愛へ眞の人倫的共同へと向ひつつ、時の眞中に現はれる永遠的生の蕾を宿す幹となりうるのも、ただ罪の赦しによるのである。かくて與へられたる持場において及ぶ限り能ふ限り自己の職責を果し、私を棄て己を虚くして人に又公に奉仕することが、罪の赦しをすなほに受けつつ惠みに答へる道となる。貧者の一燈・やもめのレプタ(一錢)もここでは窮みなき尊さに輝く。人事を盡して天命を待つは永遠の生を生きる者の正しき道であらうが、人事を盡しうるそのことがすでに天命によるのである。かくの如く罪の赦しはそれ自ら時の眞中における永遠の現はれであり、又永遠のあらゆる内在化の基礎である。
四六
罪の赦しが神聖なる愛の啓示であることは、それ並びにそれに聯關する諸現象に超時間的性格を與へる。罪の赦しそのものはすでに超時間的なる根源的罪惡と個々の時間的行爲の罪惡性とをひろく共に包括する。個々の行爲は時間的である限り赦しに對しては過去に屬する。しかるに過去は、根源的意義においては、無に歸することである故、過去の罪惡に對する赦しの動作從つて神の愛は、無より有を呼び出すことによつて、更にその有を克服することによつて、二重に過去を克服しつつ、永遠性の威力を發揮する。このことは更に次の事柄によつて一層明かにならう。罪の赦しは責任を不問に附することである。責任を負ふ限りすべての罪惡は「罪責」(Schuld)である。罪惡も罪責も不問に附せられることによつてそれ自身無くなるものではないが、他者と主體との關係はそのために根本的變革を來す。罪惡においては、神との關係は倒逆され、本然の姿に背いて共同への反抗となる。これを元に戻すべく反逆そのものの眞中に飛び入る惠みが即ち赦しである。人間的に言ひ表はせば、それは敵に對する神の愛の現はれである。このことは更に遡つて、罪惡の負ふ責任が永遠者に對するそれであることを痛切に教へる。人間的主體は愛せられるものとして、愛の深さを身に覺えることによつて、はじめて自己の罪責のいかに大なるかに目覺めるのである。自然的文化的生にのみ留まる間は、犯したる罪惡は畢竟自己實現の失敗不成功に過ぎぬであらう。不快を感じ遺憾に思ふといふことは或は見遁がされようが、責任を感じ罪を悔いるといふことは、許し難き僭越といふべきである。根源まで遡れば過去は無に歸したるものである。存在せぬものに對しては遺憾の念を抱くことさへすでに事理に背くであらう。文化的生においては囘想によつて過去は或る程度の克服を見現在の性格を得るであらうが、現在となつた過去は、すでに明かにした如く、主體の勢力範圍に屬し主體によつて處理され變更されうる事柄である。主體は進んでそれに善處しそれを善用し過ちは改め禍は轉じて福となせばよいのである。それ故責任は、それの本來の意義を徹底させれば、文化的生が許し難き又及び難き超越的なるものを指し示してゐる。責任は自己が動かし得ず處理しえぬ何ものかへ、從つて結局實在的なる他者へのそれでなければならぬ。眞實に純粹に絶對的に他者性を保つものは神聖者以外にはない故、責任は結局神に對してのみ成立つ事柄である。自己に對する責任について正當に語りうるのは、その自己が他者の、結局は、神聖者の象徴・神の言葉の意味を有する場合にのみ限られる。然らずして自己に對する責任について語るならば、それは自己實現の努力の目標を不正當に飾る言葉の綾に過ぎぬであらう。尊嚴と權威とをもつて何ものかが我に迫り來る時、當爲と命令とが從順と獻身とを我に要求する時にのみ、責任について正當に語られるのである。罪惡はこの意味の責任に對する違反として罪責であり、更に神聖者に對する反逆である。罪責の自覺は「悔い」(悔悟)と呼ばれる。これは時間性を全く克服したる永遠者との關係においてのみ成立つ事柄である。ここでは過去の行爲も單に善處すればよき事柄ではなく、主體が全き自己をもつて責任を負はねばならぬ事柄となる。かくて罪責は必然的に悔いとなる。この悔いに神の側において對應するのが罪の赦しである。否それどころか、悔いそのものはすでに罪惡への沒頭よりの解放を指し示すものとして、それ自身すでに神の救ひの業であり、罪の赦しの基礎の上に成立ち、むしろそれと表裏一體をなす。神に關しては、赦しを悔いの報酬となすは本末顛倒である。赦されたればこそ悔い得るのである。
ここよりして死も新たなる意義を發揮するであらう。死は、すでに論じた如く、時間性の徹底化であり、他者を離れ單獨化しつつ自己を主張する主體の必然的に陷る運命である。かくの如き自己主張が罪惡であり、從つて死はまた罪の報いである。そこまで達して罪の恐るべき意義は徹底する。しかしながらこの生の留まる間は死は到來する事實ではなく、覺悟のみの事柄である。覺悟する死は人間がこの世において直面し體驗しうる死の唯一の姿といふべきである。死の恐怖のうちにもすでにそれの必至從つて覺悟の要素は或る程度まで含まつてゐるが、死に對する態度がこの段階に留まるならば、死より遁がれようとする欲望をなほ脱し得ず、從つて、死が無に歸すること生の壞滅であることの自覺にまで徹せず、從つて又、單なる生活慾・原罪の單なる發動の虜であるを免れぬであらう。嚴密の意味における死の覺悟に達するに及んではじめて人はこの世の生の行くへに目覺めるのである。それ故死の覺悟は主體が本然の姿に立戻るための重要なる一歩、神聖者との眞の共同へと踏出されたる一歩といふべきであり、從つて悔いの一つの形態、しかも罪惡そのものの明かなる自覺なしにも起りうる故、悔いの最も原始的乃至基本的なる形態といふべきである。すべての純眞なる悔いは神聖者の愛によつて成立つ故、死の覺悟も亦惠みの賜物であり罪の赦しの發現である。人は決死の尊さについて語る。しかしながら死の決心をなすことそのことが尊いのではない。例へば、この世の苦惱を遁れんがための決死は、死を生の存續となす前提の上に立つものとして、自己矛盾を含む愚擧であるが、更に自己の責任を遁れようとする卑怯の振舞でさへある。總じて輕々しく死を決するは、他者に委ねらるべきものを自ら處理しようとするものであつて、神聖者に對する冒涜である。之に反して、神聖者の言葉・神の召しに應じての、責任と本分との自覺よりしての決死は、眞の永遠の閃き、神聖なる愛に答へる純眞なる愛の輝きである。ここまで達すれば、人は更に一歩を進めて死そのものをも惠みとして受けるであらう。罪の赦しの背景のもとには、生がすでに惠みであり、死は又更に惠みである。滅ぶべきものが滅びるのは、生くべきものが生きるための前提として、無より有を呼び出す永遠者の發動でなくて何であらうか。
六 死後の生と時の終りの世
四七
しかしながら罪の赦しにも拘らず、時の眞中における永遠の啓示にも拘らず、罪も時もなほ嚴として存在する。神の惠みは動いてはゐるが、なほ完き支配には至らぬ。これはなほ安住を許される究極地ではない。それ故最後に罪そのもの時そのもの從つて死そのものが完全に克服されねばならぬ。これこそ永遠の完全なる到來純粹なる顯現である。吾々は今は信仰の平らならぬ鏡に歪められて映る永遠の姿に見入つてゐるが、その姿はいつかは遮るものも隱すものもなくさながらに顯はにならねばならぬ。將來の現在性・將來の現在との完全なる一致において永遠性は存する故、この顯現は將來の方向に求められる。それは「希望」又は「待望」の對象である。さて永遠が時の眞中に顯はになる限りそれは信仰の對象である。それが永遠であり神聖者の創造の惠みである限り、それの完全なる顯現の保證はすでに信仰のうちに含まれてゐる。信仰は永遠の完全なる到來の約束といひうる。それが約束であり保證であり、從つて自らの以外乃至以上の何ものかを指し示す限り、信仰は希望となるのである。超越的なるものへ向ふものとして、いかなる宗教も何等かの希望の上に立つてゐる。しかしながら信仰も希望もそれ自身究極的なるものではあり得ない。それらは道案内に過ぎぬ。目的地に到着するとともに姿を消さねばならぬ。永遠と愛との完き顯現は宗教の退場を意味する。
さて完き永遠の到來はいかにして行はれるであらうか。先づ第一に、時及び時間性の克服は完成されねばならぬ。時の終りにおいて又それを通じてのみ永遠は完く顯はとなり得るのである。しかもそのことは完成されたる事實としての死の到來を意味する。時間性と時間的生とが行く處まで行くことは、それの勢力の崩壞を意味するのである。死を求め死に向つて進むことが生の本質である。求めるものに、死に達することは生の完成であるが、この場合又消滅でもある。死が單に覺悟の事柄である間は、無は有の外にあり、生と存在とは壞滅を目掛けて行進を續ける。その間は無へと向ふ有はなほ存在する。目標に達したとすればどうであらうか。有が無の中に吸收されることによつて有は無くなるが、又有の外にあり有を待受ける無も同じく無くならねばならぬ。ここにはじめて徹底的に克服されたる契機として無を徹底的に内に含む永遠性の成立は可能となるのである。すなはち事實としての死の到來は生の、時間性の、克服であるとともに又死そのものの克服でもあるのである。古へより彼方の世の光に目覺めた人々が生の單なる繼續を、例へば殊に輪[#「輪」は底本では「轉」]※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]轉生の如きを、苦として乃至罰として感じたのは謂はれある事である。
四八
かくの如く救ひの徹底、罪と時と死との完全なる克服、は死の後に又時の終りを經てのみ達成される。かくの如き純粹なる永遠及び永遠的生は時の眞中に生きるわれわれ人間にとつては全く超越的である。この世に内在する永遠は屈折しながらもなほこの世を照す光として體驗の範圍内に存し、從つて體驗内容を概念的に整理し擴充することによつてなほ概念的表現に移すことが出來る。啓示の體驗の及ぶ限り譬喩的表現のみ唯一の可能なる表現であるが、しかもそれは體驗の直接の表現として可能でもあり又許されもする。しかるに來るべき純粹の永遠は體驗の事柄ではない。それは現に啓示されては居らぬ。假りに啓示されたとすれば、屈折性を離脱してさながらの姿においてしかなされねばならぬ故、この世において可能なる唯一の表現としての譬喩的表現もそこでは全く無力とならねばならぬ。現實的生に對して克服及び超越の傍ら根源と完成とを意味するものとして、何らかの手掛りは與へられるであらうが、記述そのものは構想力の仕事、想像の領分に屬する事柄である。古へより預言や詩がこの任務に當つて來た。宗教的表象をなほ宗教そのものの立場に立ちつつ概念的に整理しようとする神學でさへ、この場合、上述の三重の性格にもとづいて、構想力の進むべき方向と警戒すべき岐路とを指し示すといふ批判的なる仕事以上の事はなし得ない。哲學に殘される任務は、更に一段高き反省の立場に立つて、その批判の原理の自覺を提供する以外には無い。
來るべき永遠は死後の生を意味する。それの表象は靈魂の不死性と復活との二つの相對立する形態において歴史的に與へられてゐる。不死性の思想についてはすでに論述した。復活はペルシア教ユダヤ教キリスト教などにおいて見られる(一)。一旦死したる人が甦へる・再び生を取戻すといふのがこの思想の心髓である。今は歴史的敍述に立入る遑はない。これら兩思想の相違は通常、身體を死後の生の一要素として否定するか、或は肯定乃至重視するかに存する、と考へられる。この問題も決して等閑りにすべきでないはいふまでもない。身體の尊重は人格性の尊重を意味する。實在する主體として人間は決して精神と同一ではない。單なる精神は抽象的分析の所産に過ぎず、全き人間の片割れでしかない。この事は勿論生物學的心理學的にも言ひ得るが、人格の觀念まで進めば一層強く言ひ切りうる事柄である。人間が眞に實在者として生きるためには人格まで昇らねばならぬ。しかるに人格は共同においてのみ成立つ。共同は象徴を通じての
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