れと内在性の關係を結ぶ。時間性の缺陷である可滅性・斷片性・不安定性等の如きは現在が將來との合一を企てて失敗にをはるより來ると解すべきである。主體は本質上他者との共同を求める。しかるに自然的生においては共同の準備ともいふべき直接的交渉はつひに主體の壞滅への道となつた。これが時間性である。生のその本來の願望が成就したとすれば、それが永遠性なのである。それ故時は永遠への憧れ、逆に永遠は時の完成といひうるであらう。又神聖なる神の啓示・惠みの創造がこの世のあらゆる存在の本にあつて自然的實在性の源をなす如く、永遠も時の根源をなすと解しうるであらう。尤もいかにして時が永遠より發生したかは別の問題であり又あらゆる理論的探究を超越する問題でもある。
 永遠性は空間性をも克服する(二)。この場合克服は、時間性の場合とは異なつて、純粹の否定に等しい。根源的空間性は、すでに述べた如く、主體と實在的他者との間に存する排外性、純粹の外面性である。これを時間性の觀點よりみれば、現在と將來との間の離反不一致が空間性なのである。これは永遠性において徹底的に取除かれる故、非空間性がそれの本質的特徴をなすといふべきである。しかるに時間性との内面的聯關はそこでも全く斷ち切られることはない。過去を克服し將來と現在との完全なる合一を成就することによつて、永遠性は時間性を克服しつつむしろ完成する。永遠性においては將來と現在と、他者と主體との間柄は徹底的に共同であり從つて内在的である。徹底的内在性は空間性の徹底的克服に外ならぬ。今振り返つてみれば、觀念性において空間性は一應克服された。そこでも空間的表象はすでに譬喩性を帶びた。しかしながらそこでは他者性は自己性と對立しつつなほ克服し切れぬ外面性として殘つてゐた。しかるに永遠性においては他者性と自己性との對立さへ全く跡を絶つ。自然的生が基體として支配を續ける間は空間性の餘威はなほ殘る。之に反して自然的生が全く克服され、自己が他者の完全なる象徴と化する永遠性においては、空間性の殘り香さへも全く消え失せる。ここに吾々は時間性と空間性との根本的相違、しかして又前者の優越性を見る。
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(一) 二節參看。
(二) 一五節參看。
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        四四

 時と永遠との問題はおのづから「有限性」と永遠性との關係に思ひを向けしめるであらう。有限性と時間性とは通常殆ど同一事の兩面に過ぎぬが如く考へられる。しかしながらこれは當を得ない。存在が何らかの制限・限界・缺陷を有する場合、即ち一般的にいつて非存在と本質的に結び附いてゐる場合には、それは有限的と呼ばれる。スピノーザがそれを部分的否定(ex parte negatio)と定義したのは典型的といふべきであらう(一)。時間的存在は勿論この定義に相當する。時において存在する主體は實在的他者・他の主體と互に相容れぬ關係に立ち、他を制限しつつ自らも制限され、又自らであることによつて取りもなほさず他ではなくなる。又それはかくの如き交渉の歸結として絶えず無の中非存在の中へ陷沒する。有限性が時間性と極めて親密なる聯關にあることは爭ひ難い。然らば有限性はいかなる場合にも永遠性とは縁遠き乃至は相容れぬ位置に立つのであらうか。この點に關しては通常行はれてゐる思想は根本的修正を要する。永遠性に關する吾々の論究は次の事態を明かにした。人間的主體は、神聖者の創造の惠みによつて、無を外に乃至外に向つて有するを止め、それを自己の核心に本質の奧深き中心に、克服されたる契機として有するに至つて始めて時間性を克服し永遠性を成就する。さてかくあるとすれば、主體は有限的であることによつてのみ永遠的でありうるのではなからうか。永遠性が主體の眞の存在の仕方であり、時間的存在者はそれに憧れそれへと昇るべく努力せねばならぬとすれば、かかる有限性こそ眞の有限性、本質において有限的なるものの本來の性格純眞の姿といふべきである。この有限性は、かの時間性に等しき有限性の如く、單に部分的否定即ち半ば有半ば無といふが如き妥協的存在ではなく、一方徹底的に即ち本質の中心まで無でありながら、他方徹底的に有即ち滅びぬ存在である。今これを眞の有限性と呼ぶならば、時間性と表裏の關係にある有限性は、「惡しき有限性」の名を與へらるべきであらう。
 眞の有限性において主體は絶對的他者の愛に安住し、そこより離れて自己の獨立を求めるといふことがない。それの主體性それの動作の中心は、他者の純粹の象徴としての自己を主張することに盡きる。從順と信頼とがそれの態度である。しかるに自然的生における主體は、本質においては有限的であり無の上に立ち無を自己の中心に抱きながら、あたかも純粹の有であるかのやうに振舞ひ、ただひたすらに自己主張へとのみ驀進する。生の直接性・自然性とはこのことである。しかしてこのことは本來の有限性の否定從つて永遠性の否定を意味する。主體は無よりの離脱を求めることによつて却つて滅びぬ存在を失ふ。これが時間性である。時間性においては主體は無をわが外に追ひ遣つてひたすらわが有をのみ主張する。そのことの歸結としてそれは却つてわが外にある無のうちに追ひ込まれ、絶え間なき壞滅の運命をたどるに至る。ここに惡しき有限性は成立つ。すなはち、それは主體が自らの力を恃みわが本然の姿である眞の有限性を脱却し、いはば、神によつて造られたるものであり神の惠み無くしては無に等しきものでありながら、惠みの賜物を逆用して、自ら神に成らうとした僭越反逆の振舞ひの現はれである。この惡しき有限性よりして、惡しき永遠性としての無終極的時間が發生することは、すでに説いた所で明かであらう。時間性の克服は主體が自己本來の面目を取戻し、神の愛へ從つて眞の有限性の故郷へ立還へることにのみ存する。
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(一) Ethica. I, 8. schol. 1.
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      五 罪 救ひ 死

        四五

 ここよりして吾々は時間性と「罪惡」との親密なる聯關へと導かれるであらう。時間性は主體の状態、しかも從ふべく強ひられる運命的状態であつて、罪惡と同一ではない。時間性そのものに罪惡を置くならば、永遠性も時間性の單純なる否定に過ぎぬ無時間性に求められ、かくて時を知らぬ純粹の存在・純粹の眞理の觀想に身を委ねることが、時間性の克服の道となるであらう。愛において永遠性を發見した吾々にとつては單なる時間性が罪惡そのものではないことはすでに明かである。しかしながらそれは何等かの意味において罪惡の歸結でなければならぬ。愛より從つて神への從順よりの離脱、神聖者への不從順反逆こそ罪惡である。かかる罪惡は時間的存在の根源にあつて永遠よりの墜落と時の發生とを惹き起す。すなはち、罪の報いは時間性とそれの徹底化である死とである。
 時間性及び死の根源に罪があるといふことは、その罪を人間的主體の個々の動作に歸屬せしめることの誤謬を明かに示すであらう。それは永遠より時を發生せしめる根源的動作において求められねばならぬのである。しかしながら人間の現實的生はいつも時間性の性格を擔ふ故、その動作は時に先立つもの、生れる前のものでなければならぬ。かかる言ひ方はすでに時間的規定によるものであり譬喩的でしかあり得ぬはいふまでもない。古より宗教的及び哲學的想像は、例へばヘブライのアダムの説話の如く或はプラトンの「パイドロス」における魂ひの墜落の説話の如く、具體的形容とこの世ながらの潤色とをもつて理解に役立たうとしたが、超時間的墮罪といふが如きは吾々のあらゆる表象や概念を超越し、勿論理論的には全く近寄り難き事柄である。吾々はすべての時間的動作・全き時間的存在の根源において、それに先行する制約として、それの本質的性格を規定し付與するものとして、永遠と時とを繋ぐ何らかの動作を前提すれば足りる。これは個々の時間的動作の根源にあるものである故、神學的乃至哲學的思索はこれを「原罪」(peccatum originale)「根本惡」(〔das radikale Bo:se〕)などの名をもつて呼んだ。この原罪は動作の時間性を超越して過去の動作をも支配するものである以上、言ひ換へれば、過去の自己に對する責任といふ事實が明かに示す如く、現在を去つて無に歸することが原罪の支配よりの解放を意味せぬ以上、過去の克服としての永遠性の光はここにも明かに反映してゐる。さて、原罪は人間的主體の動作を單純なる直接的なる自己主張とならしめる。時間的なる個々の動作の罪惡性は、この自己主張の直接性に基づき、それを克服して愛の實現の基體となすを拒み、かくて神の愛に對する不從順の態度を取るに存する故、有限的主體にとつては時間性の克服はこの根源的罪惡のそれでなければならぬ。
 罪の克服は宗教的用語においては「救ひ」又は「救濟」と呼ばれる。それは眞の有限性へ主體の本然の姿への復歸として、神聖者の惠みによつてのみ行はれ得る。本然の姿とは、主體が自ら固有の力によつて實現する存在の仕方をいふのでなく、自己が全く無に歸し彼方より與へられるものによつて充さるべき空虚なる器となることをいふのである。すなはち救ひは創造としてのみ行はれる。被創造者としての本來の面目を自ら抛棄して、あたかも自ら創造者であるかのやうに、ただひたすら自己の主張にのみ耽り、そのため却つて壞滅の道をたどるに至つた主體を、徹底的に無に歸せしめることによつて、新たなる主體性・眞の有限性を與へつつ愛の主體として創造する――これが救ひである。この救ひは、自然的文化的主體が惠みの光に照されて愛の閃きを示す限り、すでにこの世にはじまるといひうるであらう。しかしながら、この世の續く限り主體の態度はなほ自己主張であり、それの生の性格はなほ時間性を脱しない。現實的生の續く限り罪も時間性もなほ克服されずにある。かくの如き生はいかにして愛の閃きを示しうるであらうか。示されたと思はれるものは、むしろ自覺を惑はす鬼火の如きものではないであらうか。救ひは全く神の惠みによる事柄であつて、人間が自己省察によつて知り得る自己の状態や業績などを本としてかれこれ論議しうる事柄ではないのである。それ故、罪も時間性もなほ克服されぬこの世において救ひがいかなる姿を取るかについては、吾々は神の惠みの特殊の發動と啓示とに俟たねばならぬ。「罪の赦し」が即ちそれである。
 罪の赦しは罪惡の事實を前提した上の神聖なる愛の最も基本的なる動作といふべきである。罪無き世は永遠の世であり、そこでは勿論罪の赦しの事實も又必要もなく、有限的主體は神聖なる愛の喜びに浸りつつ、とこしへの現在に生きるであらう。又生の自然的文化的段階に強ひて立留まり共同への憧れを強ひて抑へようとする、從つて僞りの有限性に強ひて滿足しようとする、絶望的努力に耽るやうな人間的主體に對しては、勿論罪が存在せぬ如く赦しも亦空想に過ぎぬであらう。しかしながら罪の事實が一たび視界に入つた以上、罪の赦しの基本的重要性はたちどころに明かになるであらう。底知らぬ無の淵に惠みの手に支へられてわづかに墜落を免れてゐる有限的主體にとつては、惠みに對する反逆である罪惡は壞滅を意味する外はない。惡しき有限性の方向へとはいへ、とに角主體としての存立を保つてゐることそのことがすでに反逆を反逆として認めぬ惠みの賜物なのである。この世この生そのものがすでに罪の赦しの上に立つてゐる。それは個々の行爲に對してはじめて發動するといふが如き生やさしき表面的な事柄ではない。ここよりして吾々は神の創造が永遠的存在の根柢にあるばかりでなく、時間的存在そのものも創造の惠みによつて成立つことを知り、あらゆる厭世的世界觀を免れうるであらう。あらゆる覺束なさ醜さあらゆる惱み苦しみあらゆる虚僞不徳不明あらゆる爭鬪破壞にも拘らず、人間の生は、文化の方面においても人倫の方面においても、神聖なる全能なる愛の力によつて支持されてゐる。自然的文化的生が根もと深く罪を宿しながらなほ神の惠みを容
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