こではエロースをしてそれ本來の目的を遂げしめることによつて行はれてゐる。すなはち、エロースがそれへと目がけて努力はしながらも到達はなし得なかつた客體――この場合無論純粹客體――との主體の完全純粹なる合一がここでは永遠性なのである。しかしながら、すでにしばしば論じた如く、活動を克服しようとする觀想の志向は果して成遂げられるであらうか。成遂げられたとすれば、それはあらゆる他者性の消滅從つて主體性そのものの壞滅と同じではなからうか。生と名づけ得るものはいつも他者性を含む。他者性の消滅した處には生もなく又勿論生の共同もあり得ない。次に、假りに神そのものの永遠性は許すとして、人間的主體は果してそれに參與しうるであらうか。神そのものはあらゆる活動あらゆる時間性を超越してゐるとして、時間的生を生きエロースによつて地上に活動を續けてゐる人間的主體は、いかにして又果して天上の永遠の世界まで昇りうるであらうか。エロースの目的がすでに完全に達成されてゐる神においてはもはやエロースは無い。神よりして人へと愛の手は差し延ばされない。人が神へと向上の努力を試みねばならぬ。その努力は果して報いられるであらうか。答は明白に「否」である。人間的主體が自らの力を恃みて永遠を手掴みにしようとする僭越なる企圖は、簡單に幻滅をもつて報いられるであらう。之に反して、己を虚くし一切を他者に獻げるアガペーにおいてのみ、眞の共同從つて眞の永遠は達成されるのである。ここでは他者性は眞實の他者性即ち實在的他者性である故、飽くまでも消滅することなく、それ故又眞實の共同を可能ならしめる。しかもその他者性は、絶對的實在者にとつては、外より與へられたる、直接的衝突を意味する、外面的他者性ではなく、絶對者そのものが愛よりして、即ちそれの本質をなす永遠的共同そのものよりして、設置した他者性である故、言ひ換へれば、神においても愛は自己性の實現・自己同一性の貫徹には存せず、他者本位他者主張の動作である故、そこに成立つ共同は、それを或は損ね或は滅ぼすであらう何ものをも含まず又かかる何ものにも出會はぬであらう。その共同は、エロースにおいての如く、終極を從つて完成を見ることなき存在の連續によつて、眞の中心をもたず又眞の中心に達することなき運動によつて、行はれるのでなく、直接に中心と中心とを結合しつついつもすでに終極完成に達して居り留まつてゐる動作に存する故、生と存在とは徹頭徹尾全體的である。かかる存在かかる生においてこそ吾々は眞の無限性に出會ふのである。
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(一) 三二節、三三節參看。
(二) 活動と觀想とについて吾々がしばしば述べた所を參看。
(三) 永遠性に關するアリストテレスの、殆ど典據を擧げる必要のないほど有名な、思想については、例へば次の諸書參看。Metaphysica Vol. XII; De anima Vol. III, 4 seqq; Eth. Nic. Vol. X. ――不死性永遠性を有する人間の理性(nous)が個人のものか否か等の問題に關しては、古代より論議が行はれ、近時 Brentano (”Psychologie des Aristoteles,“1867) と Zeller (”Kleine Schriften,“Bd. I) との間に有名な論爭が行はれたが、それの解決如何は吾々當面の問題には沒交渉である。
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        四二

 吾々は神の愛によつて人の愛がいかに根據づけられるかを見た。神聖なる愛の光に照されて一般に現實の生と世界とがいかなる趣きいかなる相貌を呈するかをも、吾々は考察に入れねばならぬ。自然的文化的生において主體と交渉に立つ他者は廣き意味において「物」と名づけられて「人」と區別される(一)。この場合「人」は必ずしも生物學上人といふものと同一ではない。ここに人といふのは人倫的共同において人格としての資格を保つものである。それ故、人が人格としての待遇を受けず、單に手段として用ゐられる場合において乃至しかせられる限りにおいては、生物學的には適切に人と呼ばれるものも「物」としての存在を保つに過ぎぬ。すなはち、物は、廣き意味においては、文化的生において主體の自己實現の活動に質料として出會ふもののすべてである。人倫的共同において嚴密の意味における人即ち人格である同じ實在者も、文化的活動の質料としての意義を擔ふ限りにおいては物である。「物的」と區別され「人的」と世に呼ばれてゐるであらうものも、「資源」や「資材」としては、嚴密の意味においては、等しく物的なのである。客體は、自然的實在者の象徴としての意義を有する場合のみならず、觀念的存在者としてそれ自身の存在を保つ場合にも、等しく物である故、物の領域は純粹客體・イデアの世界にまで及ぶ。文化の形成作用の生産物も、生産の活動に對しては成就されたる形相の地位に立つであらうが、受用の活動に對してはなほ質料の地位に留まるを思ひ、又觀想の活動があらゆる存在を包括するを思へば、物の領域は全き存在の世界に及ぶといふべきである。
 さて、かくの如き物の世界又それに對應する文化的生は永遠の光を反映していかなる變貌を來すであらうか。永遠性は愛において成立つ故、愛の主體であるもの乃至あり得るものにおいては、時間性に蔽はれながらも、それの眞の姿はなほ明かに輪郭を示すであらうが、物の世界についてはこのことは困難となる。人倫的共同の立場に立てば、自然も文化も、或はその共同より發生したるもの或はそれに對してのみ存在の意義を有するものとして、次に又その共同の制約である場合には、それの成立に必要なる乃至は成立を支援する前提の意義を有するものとして、いづれにせよかくの如く、むしろ派生的又は從屬的意義を有するに過ぎぬであらう。そのことに應じて、神の愛は人格性及び人格的愛においては根源的に啓示されるが、物の世界における啓示は、これを認めるかがすでに問題であり(二)、認めるとしても、派生的從屬的以上の意義は許し難いであらう。要するにこれは結局宗教的信念がそれぞれの立場より解決すべき問題であるが、哲學はその解決の取るべきであらう大體の方向は示唆しうるであらう。先づ時間的存在の基礎をなす自然的實在者が神の創造の惠みより除外される理由は、假りにあるとするも、極めて薄弱を免れず、之に反してそれのうちに包容される理由は極めて有力であるであらう。それの存在は直接性において成立つものとして結局無に歸すべきものではあるが、しかも存在であるには變りが無い。誤つた方向を取つてゐるにせよ、そこに存在の肯定主張があることは爭ふべくもない。若しそこにあらゆる存在を非存在の中に葬りながら更に新たに非存在の中より呼び出す創造の惠みが全く働いてゐないとすれば、それが、何であるか又いかにあるかは別問題として、とに角「有る」といふ儼然たる事實はありえぬであらう(三)。かくの如くにして、主體の前に立塞がつてそれの前進を阻み又それと接觸することによつて主體を無へと押遣る自然的他者の實在性は、歪められたる形においてにせよ、神聖者の象徴、神の言葉を傳へるものとなるであらう。觀念的存在者も、同樣の理由によつて、何等かの形において神の創造に屬し、殊に純粹客體として自然的生に對して優越性を保ちつつそれよりの解放を企てるイデアは、神の愛と何等かの深き聯關に立つであらう。このことは、すでにのべた如く、人倫的共同を制約乃至媒介する秩序や法則についてはすでに明かに斷言しうる事であるが、その他の場合哲學が對象となすすべてのイデアについても、明確に規定することは困難とするも、推測はなしうるであらう。かくの如くにして物の世界との交渉も、根源まで遡れば、神との對話と名づけうるであらう新たなる意味を發揮するであらう。文化的活動も單なる自己實現に留まるを止めて神の言葉の實現となるであらう。人倫的共同と文化的活動とが現實の生において親密なる聯關に立つを思へば、文化的活動も、人に對する愛と聯關して、神の愛に對する人の答へとして人の神への愛の特殊の形態として、永遠性に參與しうるであらう。
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(一) 物と人との區別に關しては「宗教哲學」二九節以下參看。
(二) この問題は最近キリスト教神學において「自然的神學」(theologia naturalis)の問題として盛に論議された。「宗教哲學序論」一四節以下參看。
(三) 四五節、罪の赦しの處參看。
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      四 永遠と時 有限性と永遠性

        四三

 以上論じ來つた所によれば、永遠性はすでにこの世において體驗されるのである。永遠と時とは相反する性格を擔ひ、永遠的存在は自然的文化的生に對して飽くまでも超越性を保つに拘らず、他方また内在的である。自然的文化的生を生きる同一主體がすでに永遠の世と親密なる聯關に立ち得るのである。このことは勿論神聖者の愛の啓示によるのであつて主體そのものの自らの力によるのではないが、一たびその啓示の立場に立てば、永遠性と時間性との親密なる聯關も明白なる事實となる。永遠は決して時と沒交渉ではない。それの内容的規定は愛の觀念によつて得られたが、それの形相的規定いはばそれの定義は時間性を手蔓としてそれとの關係において得られねばならぬ。吾々はたびたび「滅びぬ現在」について語つた。これが永遠性の第一の本質的特徴である。現在は主體の存在の仕方であり、滅びぬ現在も亦さうである。すでに十分明かになつた如く、愛の共同こそかかる存在の仕方である。滅びぬ現在は過去と全く相容れぬ。過去は、吾々が特に強調した如く、それの根源的意義においては、有の無への沒入、存在の壞滅である。それ故過去の徹底的克服が永遠性の第二の本質的特徴でなければならぬ。然らば將來はいかになるであらうか。これは永遠においても保存される。根源的時間性においては將來は實在的他者を指さす。彼方より來るものを迎へ待ち受ける主體の態度において將來は成立つ。永遠的存在と愛とにおいても、實在的他者として又それよりして、即ち彼方より、來るものを迎へる態度は依然留まる故、否それどころか、かかる態度こそ愛の本質的性格をなす故、永遠においても將來は保存される。永遠を成立たしめる愛が他者と主體との生の純粹完全なる共同であるに應じて、永遠そのものは將來と現在との純粹完全なる合一である。このことによつて現在も將來も面目を全く一新する。この世の生の基礎をなす自然的生においては、來るを迎へることは一方現在の成立を意味しその限り主體と他者との共同の微弱ながらも準備をなすのであるが、他方現在の壞滅を意味し却つてあらゆる共同を妨碍し不可能ならしめる。之に反して永遠においては、主體は來るを迎へることによつて無を克服しあらゆる壞滅を免れる。「將來と現在との完全なる一致」、「將來の完全なる現在性」こそ永遠性である。創造は、諸民族の神話の好んで語る如く、時の始めにおいてただ一囘起る出來事ではなく、永遠の世において絶えず起りつつある出來事である。創造のある處では一切は常に新たに常に若く常に生き常に動く。窮みなく湧き出る將來の泉よりいつも新鮮なる存在を汲み受けつつ、いつも若き現在の盡きぬ喜びに浸る――これが永遠である。かくの如く將來が完全に現在と一致し現在を支配する處には過去ばかりでなく「未來」の居るべき場處が無い。既に述べた如く、「未來」は將來が現在と一致せぬ處に發生する派生的現象である(一)。「將に來らむ」が將來の根源的意義であつて、未來即ち來らむとするものが未だ來らぬのは、自然的生の本質的缺陷によつて將來が蒙る制限に外ならぬ。永遠の世においてはこの制限が全く解除される。ここでは將に來らむとするものは正に即ち必ず來るのである。永遠性の體驗乃至待望が存在する場合なほ「未來」について語るならば、それは無思慮の甚しきものといふべきであらう。要するに、永遠性は無時間性の如く時の簡單なる否定ではない。それは時の克服であるには相違ないが、他方またそ
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