方一致をも意味する。しかも兩極の不一致は徹底的であり相互の歩み寄りを許す如き程度的のものではない。かくてここにも吾々は無の中より有を創造する惠みに出會ふのである。時間的存在がそれ自らで留まりながら、しかもその自己を無の中に葬り更に無の中より象徴としての新たなる存在を得ることが啓示である如く、表現の譬喩性は創造によつてのみ成立つ。吾々が口ごもりながらも神について永遠について語りうるのは、吾々自らの力、乃至は表現に本來具はる資格によるのではなく、徹頭徹尾神の惠みによるのである。
[#ここから2字下げ]
(一) 次の書參看。〔P. Althaus: Gottes Gottheit als Sinn der Rechtfertigungslehre Luthers (”Theologische Aufsa:tze“ II) S. 21 ff.〕
(二) 合理主義については「宗教哲學序論」七節以下參看。
[#ここで字下げ終わり]
四〇
信仰は愛――この場合人への愛――として働く。神との共同は人倫的共同において實を結ぶ。永遠の世においては一切の存在は神聖者の象徴・神の言葉となる故、人倫的關係において「我」の對手として他者として立つ「汝」も被創造者としての性格を與へられる。このことはその「汝」が絶對者のうちに融け入り消え行き實在性と主體性とを失ふといふのではないことは、「我」についてすでに論述した所によつておのづから明かであらう。象徴化は絶對者に對して主體性を保ち得る唯一の途である。神は窮みなき惠みによつてこの唯一の途を徹底的に進むのである。神を離れては無に等しく神の生に與かることによつて自主的存在と生の中心とを與へられるといふのが、創造せられるといふことの意味である。そこでは自己を無くなすこと虚しくすることは却つて自己を得ることを意味するのである。さて、人間性にまで自覺的文化的存在にまで達したるものにとつては、神聖者の象徴となることは、すでに述べた如く、更に進んで愛の主體となることである。それ故永遠者の支配下においては愛は必ず交互的である。汝も我となり我も汝となる。「汝」は絶對的實在者を顯はにする象徴としてのみ實在性を得るゆゑ、實在者としてはそれは神の神聖性永遠性に與かる。人格の神聖性從つて人格性は創造の惠みによつてはじめて成立つのである。しかもそのことは「汝」も亦愛の主體として創造されるを意味する。かくの如くにして、絶對的他者神聖者の愛・創造の惠みによつて我の愛とともに愛せられる汝が成立ち、そのことにより又そのことと共に、更に我も愛せられる汝として成立つ。神より發したる愛は、かくの如くにして、永遠的愛の共同、それと共に又、人格及び人格性を生み出し又完成する。これこそ、宗教的用語をもつて呼べば、「聖者の交はり」(communio sanctorum)である。永遠性はかくの如き神聖なる人格と人格との間の互の交はりとして成就される。この交はりにおいては主體の動作は他者の純粹の象徴と化する。神の純粹の象徴と化した人格はそのことによつて又他の人格の純粹の象徴となる。かくて他者は主體の自己實現の質料たることを全く止める。文化的動作即ち活動が「表現的」乃至「形成的」と名づけらるべきに對して、人格的動作は「象徴的」といふべきであらう。ここでは主體は自己表現に媒介され從つて妨碍されて他者を手放したり見失つたりすることがない。神と共にあり神を悦ぶことによつて又そのことにおいて、我は汝と共にあり汝を悦ぶのである。共に感謝し共に歡喜する――これが永遠的生の内容である。
しかしながら啓示の兩面性に應じて永遠性の光は時間性のレンズを通り屈折されてこの世に現はれる。神聖なる愛の交はりは人倫的共同としてのみ實現される。この對象の立入つた考察はもとよりここでは割愛されねばならぬ。吾々は永遠性の觀點よりそれがいかなる變貌を來すであらうかを一瞥すれば足りる。信仰においての如く、愛(人への愛)も決して單純なる純粹なる共同ではない。それは何よりも先づ共同への努力、他者への憧れである。それは共同の缺乏より出發せねばならぬ。すなはちそれはエロースの性格を擔はねばならぬ。從つて又それは何ものかの媒介を必要とする。媒介者はこの場合においてもそれ自らとしては觀念的存在者である。しかしながらここで道が別れる。純粹にエロースにおいては目標は他者における自己の貫徹である。そこには行くへに立塞がる神聖者の侵し難き尊嚴といふが如きものは無い。他者性の任務は、自己性の處理に委ねられそれの實現の契機をなすことに存する。之に反してアガペーは神聖者との共同を目掛けて進む。このことはそれの媒介者に侵すべからざる權威を與へる。カントが定言命法(der kategorische Imperativ)と名づけ、無制約的當爲性を強調した、人格尊重の義務の法則はかかる媒介者の最も顯著なる一例であらう。しかしながら、かくの如くはじめより普遍的當爲性を有するものばかりではない。人倫的共同の種々の特殊の具體的形態の背後にあつてそれを制約し規定し促進し支持する、しかして多くの場合むしろ事實的勢力として主體を支配する諸の法則や秩序も、かくの如き建設的意義を有する限り、神聖なる愛の光を浴びて、一方侵すべからざる權威を發揮するとともに、他方恩として惠みとして仰がれるであらう。アガペーが抽象的なる人間性や人類などの如きものを對象とするが如く考へるは甚しき誤解である。この世においては具體的の人倫關係、特殊の人の道を離れてアガペーはあり得ないのである。アガペーそのものへ乃至信仰への努力を存在理由とする諸種の共同體も、特殊の人倫關係の内部において乃至それと並んで從つて同樣に特殊性を有する人倫關係としてのみ、愛の實現の地盤でありうるであらう。永遠的愛の獨占はいかなる共同體にも許すべきでない。尤もこのことは、現實に存在するいかなる共同體にも又それのいかなる事實的内容にも、平等の權利や價値を認めるといふことではない。愛は本質上永遠的なるものとして飽くまでも超越性を保ち、從つて時間的現實に對しては當爲の源となり又批判の規範を提供する。
人格の神聖性と聯關して主體の態度に更に一大變革が行はれる。純粹のエロースは價値ある對象へと向ふ。自己實現を目的とするものとしてそれはこれを促進する制約として他者を求める。それが他者を悦ぶのは結局他者において自己を悦ばんがためである。之に反してアガペーは他者本位であり他者を基準とする。それはいつも對手において神聖なる實在者、神の惠みによつて創造されたる人格を見る。信仰によつてのみ把握される他者のこの眞の姿は、この世の性格によつていかに歪められ醜くされようと、愛は飽くまでそれ本來の態度を固守する。この態度の顯著なる現はれは例へば敵に對する愛において見られるであらう。永遠の世においては敵は無い。他者は神聖者の象徴となつて自ら愛の主體であるであらう。しかるにこの世の性格は、第一に愛を一方的ならしめ、第二にあらゆる價値的自己實現的考慮を無視して自己に反對するものにさへ向はしめるのである。次に、永遠の世においては實在者は純粹の共同完全なる和合において滅びぬ完成されたる存在を保つ故、何等の爭ひも又何等の苦しみ悲しみも平和と歡喜とを脅かさぬであらう。しかるにこの世の姿はそれとは正反對である。ここでは他者は自然的文化的主體であり、從つて永遠の愛に背きつつ世の惱みに悶える主體、絶えず存在を失ひ缺乏と壞滅とに委ねられる「汝」である。この窮状より彼を救ふことが、それ故、我の急務とならねばならぬであらう。我は人の罪惡と苦惱とをわが身に背負ふことによつて、自己を他者のものとなしつつ、他者の存在の、從つて結局は他者の主體性、自然的文化的のみならず人格的主體性、の維持と促進とに邁進するであらう。慈しみ・憐れみ、進んでは奉仕・獻身等が我の態度となり乃至はそれとして要求されるであらう。――かくの如く生きるものは今現に時の眞中にこの滅びつつある世に在りながら、すでに滅びぬ現在において永遠的生を生きるのである。
四一
吾々の論究の成果は永遠は愛において成立つといふことである。すなはち、第一に、永遠は主體的のものであり、客體的のもの單に靜かなる存在ではない。次に、それは共同であり、それ自らの孤獨なる存在に安んずるものではない。すべて實在的主體的のものにおいては、「存在する」は「働く」「生きる」と同義である。しかしてすべての生すべての動作は他者へのそれであり、單獨孤立を斷然拒否する。かかる存在は完成されたる共同においてはじめて維持貫徹される。共同の成立つ限りにおいて存在は壞滅を免れる。時間性の觀點より見られたる存在が現在であるとすれば、滅びぬ現在即ち永遠は愛の共同においてのみ成立つのである。かくの如き生は缺乏と壞滅とを知らぬ。完成性と全體性と、從つて又濁りなき淀みなき生の喜びはそれの特徴をなすであらう。
永遠性の以上の如き本質がすでに或る程度までイデアリスムの哲學によつて洞見されたことは、吾々がエロースについて論じた所からも察し得られるであらう(一)。アリストテレスがプラトンの思想に加へた修正の最も主なるものは、存在を生乃至動作(energeia)と同一視したことである。存在を靜止せる自己同一性に置くことには滿足し得ずして動的性格をそれに付與しようとする傾向はプラトンの後期の思索にも見えるが、それが貫徹されて世界觀の中心に置かれるに至つたのはアリストテレスにおいてである。時間的存在においては生は運動として實現される。それは可能性より現實性への推移としていつも缺乏より充實へと向ふ。それ故純粹の現實性純粹のエネルゲイアにおいては充實あるのみ、從つて運動は無い。さて、かくの如き動作はただ觀想においてのみ可能である(二)。觀想(〔theo_ria〕)の本質は、觀られるものと觀るものと、認識の客體と主體と、が同一形相において合一すること、主體よりいへば、それ自身客體の形相に成ることに存する。それ故その本質の純粹なる實現は、主體と客體とが全く同一であり、從つてあらゆる努力あらゆる運動を超越して、兩者の合一がいつもすでに成遂げられてゐる處にのみ見られる。このことは純粹なる完全なる自己認識、思惟の思惟、である神において事實となつてゐる。人間的主體はそれの思惟をもつて神の思惟に與かることによつて、又無上の歡喜と幸福とに與かる。云々。アリストテレスは永遠性の概念そのものの論究は試みなかつたが、神を永遠的と呼び、又特に永遠的生が神のものであるを説き、人間に關しては神の思惟に與かる限りの理性を特に不死的・永遠的と呼んでゐるを思えば、彼が神においては自己との生の完全なる共同を、人においては神との完全なる生の共同を、永遠性の本質と解したことは、全く疑ひを容れる餘地が無い(三)。かくの如き傳統を繼いで、時間性との聯關において永遠性の周到なる論究と明確なる概念規定とを試み、イデアリスムの哲學の永遠觀を完成したのはプロティノスである。後の思想は彼の祖述以上に多く出でぬといつても過言ではないであらう。主體と客體との完全なる合一、即ち他者性を背景とする完全なる同一性、が彼においても永遠性の本質的特徴である。かれの特に際立つた功績は、永遠性が生において成立つことと、全體性乃至無限性を特徴とすることとを強調した點に存する。アリストテレスにおいてと同じく彼においても、神即ちこの場合 nous は純粹なる完全なる觀想であり、人間はこの神的觀想に與かることによつて、即ち觀想の働きをもつて神との合一を遂げることによつて永遠性を獲得する。
この思想は、永遠性が生の共同從つて愛において成立つことを認めた點において、眞理の深き洞察を宿してゐる。しかしながらその愛は觀想主義の立場におけるエロースとしての愛以上に出でなかつた。尤もエロースは本質上憧れであり缺乏を前提としてのみ成立つゆゑ、何等かの意味においてそれの超越が行はれねばならぬ。このことはこ
前へ
次へ
全28ページ中23ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
波多野 精一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング