表面との接觸ではなく、全體と全體との合一であるであらう。しかもこの合一が自と他との二つの中心の間に行はれることが愛の本質的特徴である。絶對的他者とのかくの如き全面的合一においてこそ永遠性は成立つのである。そこにはこの共同を破るものも二つの中心を引離すものも全く無い。創造の惠みによつて支へられることによつて、主體は無の淵の上に立ちながらしかも壞滅に沈み入るを免かれ、滅びることなき存在と現在とに生きるであらう。それは又他者との完き共同完き合一において生きる故、他者はそれの完き所有に歸するであらう。アウグスティヌスが「神を樂しむ」(fruitio dei)と呼んだものは、彼においては、自己實現による他者との完全なる共同他者の完全なる所有を意味したが、そのことは今や他者の惠みによつてはじめてここに事實となり得るに至つた。自己實現にたよる間は、こなたの一歩の前進はかなたの一歩の後退となり、我が近づくと共に他者は遠ざかり行くであらう。自己を潔く他者の足元に投げ出し他者の言葉を受容れる空らの器となすことによつて、はじめて他者はわが所有に歸する。しかも他者の所有は同時に無に打勝つた新たなる滅びぬ自己の所有である。創造の惠みによつて神の愛によつて、主體は自己實現の性格を全く無の中に葬り去り、愛の主體として新たに生れ出る。自ら愛の主動者であらうとした間は愛は自己陶醉の夢に過ぎなかつた。他者の愛に一切を委ね打任せることによつてはじめて愛は從つて永遠性は現實となるのである。
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(一) 本書七節參看。
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三九
神の愛への自己の抛棄、從つて從順・信頼・感謝等の態度は宗教的用語においては「信仰」と呼ばれる。信仰は神の愛の呼び掛けに對する人間の答へ、惠みによつて生れ出でたる新たなる自我の新たなる態度、言ひ換へれば、人の神への愛である。根本的に考へれば、信仰は、偉大なる宗教家たちの説いた如く、人間の業即ち自己實現の活動ではなく、むしろ反對に、人間における神の業である。それ故それは創造に對應するそれの半面ともいふべく、その意味においては、永遠性の領域に屬し、時間性乃至罪惡などよりも更に根源的なる觀念といふべきであらう。ルッテルが、信仰は人が罪人であることにではなく神が神であることに基づく、と考へたのはこの眞理を捉へ得たものである(一)。しかしながら信仰のこの本質は、人間の現實的生が全く時間性の支配の下にあり永遠性は單純なる事實として實現を見てゐないことによつて、特異の發現を遂げねばならぬ。このことは勿論、神の愛が單純なる事實として何人の目の前にも現前してゐるのではないといふことと、密接に聯關する。吾々は今この點に考察を向けようと思ふ。
神の愛が單純にさながらに事實となつたとすれば、永遠性のみあつて時間性のなき存在が現はれるであらう。しかしながら人間の現實的生は飽くまでも自然的生の上に築かれ飽くまでも時間性を本質的性格としてゐる。從つてこの世の愛はエロースであり自己實現であり活動である。しかも、この根も幹も枝も葉も人間的なるものが、新たなる地に培はれることによつて、かなたの世にはじめて咲き出るであらう全く思ひがけもなき變り種の蕾を結ぶに至る。しかしてこの「不思議」この「奇蹟」は神の側よりいへば啓示として人の側よりいへば信仰として行はれるのである。「啓示」は隱れたるものが顯はになり超越的なるものが内在化することである故、廣き意味においてはあらゆる象徴は啓示と呼びうるであらう。實在者は他の實在者をわが内に容れることなく、後者は前者に對して超越的であり隱れたるものである。兩者の交はりはただ象徴によつてのみ行はれる。しかして象徴は一の内にあつて他を代表し指し示すものである故、それは又隱れたるものを顯はにするといひ得よう。しかしながら宗教的用語としての啓示はかくの如き場合をいふのではない。神聖者との交はりが主體のあらゆる存在の徹底的象徴化であることに應じて、徹底的に超越的なるもの徹底的に隱れたるものの内在化のみが、ここでは啓示の名をもつて呼ばれる。自然的文化的生においては、主體の生内容乃至客體内容が實在的他者の象徴であり、乃至象徴として實在的他者に歸屬せしめられるが、この象徴性は一義的直線的である。若し立入つて論理的認識論的分析を施せば、實在者に對する遠近の別は現はれ、思惟による觀念的内容の聯關は、それ自らによつてではなく更に根源的なる内容即ち體驗内容と聯關せしめられることによつてのみ、象徴性を得るであらう。しかしながらこの聯關は、吾々の用語をもつてすれば、むしろ表現關係であり、象徴性はその場合においても飽くまでも一義的連續的である。そこには、一つの實在者の象徴である内容が、そのことにも拘らず、同時に他の乃至全く類を異にする實在者の象徴を兼ねるといふやうな多義性・不連續性は存在しない。しかるにかくの如き事態は宗教的象徴の場合においては發生するのである。尤も神の愛が單純なる事實となり永遠性のみが純粹に存在の性格をなすに至つたと假定すれば――かくの如き事態は後にも説く如く宗教的主體の切なる希望の對象であるに相違ないが――假りにこの事態が實現されたとすれば、一切の存在は、直接的にしかも殘る隈なく餘す蔭もなく、神聖者を顯はにする象徴となるであらう。そこでは、現實の世界においては避けられぬ或る程度の間接性、即ち觀念と觀念との間に存する多義性、一がそれ自らでありながら更に他と聯關しつつ他を表現し又は他によつて表現され、更にいづれも内容的他者でありながら同一自己性の表現としての性格を擔ふといふ程度の多義性さへも全く跡を絶つ。かくの如き純粹なる徹底的なる共同は宗教的用語が「神を見る」と名づけるものである。しかしながら現實の生はこれとは正に反對の事態を示してゐる。神聖なるものは現實の世界においては徹底的に、いはば二重に二次元的に、隱れたるものである。ここでは一切の存在は時間性を本質的性格として持ち、從つていかなる存在も直接的に一義的に永遠者の象徴ではあり得ない。この世の言葉は決してさながらに神の言葉ではありえぬのである。しかもこの時間的の生世俗的の世において神の愛は事實とならねばならず、永遠は顯はとならねばならぬ。すなはち時間的世俗的の存在は先づ自ら無に歸して隱れたる神聖者永遠者を顯はにする器として新たなる有を得ねばならぬ。しかしながらあらゆる存在は現實的生の續く限り依然自己本來の意味自己の舊き姿を保存する。野の百合は飽くまでも百合であり空飛ぶ鳥は飽くまでも鳥である如く、この世の生は飽くまでも自己實現でありこの世の愛は飽くまでもエロースである。それ故神の愛の現實化はこの世の姿この生の性格をそのままに留保しながら、しかも同時に他方それに、徹底的に隱れたるもの超越的なるものを顯はにし内在化するといふ任務を負はせねばならぬ。これが宗教において「啓示」と呼ばれるものである。それ故啓示は多義的不連續的いはば曲線的屈折的なる象徴である。具體的にいへば、神聖なるもの永遠的なるものは或は物或は人或は出來事として、或は歴史において或は自然において、啓示される。又異なつた對象が同時に啓示となる場合には啓示の間に根源的と派生的との又その他重要性の相違の現はれる場合もあらう。いづれにせよ啓示は――尤も本質に必ずしも副はぬやうな諸現象は事實としては到る處に見られるが――永遠性と時間性との間に勢力範圍を適宜に割當てることによつて協定を結び妥協を遂げるやうなものではなく、例へば半ば神半ば人であるやうな對象を押立てるやうなものではなく、兩極にそれぞれの完全なる支配を許すものである。時間的存在も永遠的存在も飽くまでも各自の性格を維持乃至主張する。從つて啓示の任務に當る對象は一方において永遠者神聖者を本質的に顯はにするものでありながら、他方においては反對に本質的に隱すものである。要するに、時間性とそれの領域に屬するものとが、完全に克服されずにそのままに保存される點に、啓示の本質的特徴は存する。このことはそれが暫有的なる事態であり、究極的なるものはなほ更に求めらるべきであるを示唆する。
神の愛としての啓示に對する人の側の答が、すでに述べた如く、「信仰」である。すなはちそれは人の神への愛に外ならぬ。啓示の多義性兩面性に應じてそれも反對の傾向を從屬的契機として必ず含有する。それは從順・信頼・感謝等でありながら、未だ克服し切れぬ契機としてそれらの反對を、少くも反對の可能性を内に含む。それは完成されたる愛の如く對象の完全なる失ふことなき所有による歡喜に留まることは出來ない。それはいつも足らざるもの缺けたるものをもつてゐる。それは一面憧れでありエロースの性格を擔ふ。眞の愛の如く直接的でありながら又他方媒介をも必要とする。從つてそれは決心・決斷・選擇等の契機をも含む。確實性である傍ら又他方不確實性疑惑の危險をも宿す。すなはち、それの確實性は直觀的でありながら、しかも理由づけ根據づけ關係づけの上に立つ。このことはそれに信念としての性格をも與へる。かくてそれは實在者との共同として實踐的でありながら、しかも同時に一定の表象一定の思想の把握として理論的でもある。かくの如き構造を有する故、神への純粹の愛や神を見る働きなどに比べては、神を信ずる働きは暫有的前階的意義しか有せぬであらう。それにも拘らず、信仰は、それの最深最奧の本質においては、愛そのものであり、全き自己とあらゆる存在とを提げて神の惠みに委ねつつ、ただ神よりして神において神へと生きることである。
啓示の徹底的なる、しかもそれにも拘らず、多義的不連續的屈折的なる象徴性は、宗教的表象に即ち信仰の理論的内容に、徹底的譬喩性の性格を齎す。この譬喩性は、時間性が全く克服され愛が純粹に完全に成就されれば、おのづから全く消滅する。しかしながらこのことは、信仰の表象が理論的表現の範圍内において暫有的前階的であり、從つて理論的に見て妥當なる終極的表現に席を讓るといふことではない。古へより合理主義者は、信と知との區別をこの意味に解し、概念的學問的認識が、神學や哲學が、信仰の不完全なる方便的表現に取つて替はると考へた(二)。これは許し難き謬見である。時間性の續く限りこの世の留まる限り、宗教的表象の譬喩性は消滅することがない。徹底的譬喩性の範圍内においては表現法の變化や進歩は見られるであらう。例へば具體的表現が理論的に加工整理されて概念的表現に移されるといふやうなことは起り得るであらう、否起らねばならぬであらう。しかしながらそのことは決して譬喩性よりの解放を意味せぬのである。永遠者はこの世にとつては徹底的に超越的である、實在的にも性質的にも超越的である。それ自らとしてはそれはこの世のあらゆる人間的表現をないがしろにする。神と人との共同と交渉との任に當る象徴は徹底的であり、表現の入込むべき空隙を殘さない。表現はもと自己性が或る程度の解放を見たる場合にのみ即ち反省の立場においてのみ許される。表象や概念は時間的生においては共同を媒介する任務に就くであらうが、何等の媒介をも要せぬ眞の愛の完き共同においては、存在さへも與へられぬ。この徹底的象徴性がしかも觀念的表現に移されるのが徹底的譬喩性である。神の言葉は全く人の言葉を超越する。しかも人の言葉に移されることによつて宗教的表象は成立つのである。啓示が一方全き人間性を保ちながらしかも他方全き神性、隱れたる神性、を顯はにするのに應じて、宗教的表象はこの世ながらの觀念性・表現性を飽くまでも留めながら、しかも表現を超越するかなたの世の音づれを傳へる。これが徹底的譬喩性である。それは或る一部の觀念や表象の譬喩性ではなく、觀念性そのものの譬喩性なのである。このことは通常宗教的表象の象徴性と呼ばれるが、すでに述べた如く、用語の明確を期するためには、むしろこの名を避けるを適當とする。
かくの如く徹底的譬喩性は時間性そのものと本質的に聯關する。それは一方において永遠性との不一致を意味し、しかも同時に他
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