ても、吾々は自己省察によつて得たる人間的愛の像にかたどつて、從つてエロースとして、表象するより外に途はないであらう。しかるに宗教的體驗より出發し、それをあらゆる理解の基準とすれば、吾々は神の愛が他者本位の行爲であること、しかも他者を無に歸せしめることによつて滅びぬ存在を與へる創造の動作であること、を明確に知覺し理解し得るであらう。神の愛は、人間においての如く、與へられたる他者より出發するのでなく、他者を創設することによつて、否しかなすことにおいて成立する。神に對しては他者であるといふことと滅びぬ眞の存在を保つといふことは全く同義である。かくの如き創造としての愛は「惠み」と呼ばれる。惠みは通常受ける資格を缺くものに與へられる愛と解せられる。無に等しきもの無の中に葬り去らるべきものに向けられ無を轉じて有となす愛は、惠みの最大なるもの、最も嚴密の意味における惠みといふべきであらう。惠みは又いつも一方的である。それ自らとしては愛せられる資格なきのみか、愛する力をさへ全く缺いたものに向けられる愛ほど一方的のものはないであらう。愛の共同はかくの如き惠みの創造の働きによつて又それにおいて成立つのである。
かくして成立つ愛の特質と構造とに關する考察の歩みを更に進めるに先だちて、吾々はここにしばし立止まつて、ここまでの吾々の理解が永遠性の問題の解決にいかなる成果を齎すであらうかを一瞥しよう。吾々が人間的主體より出發しそれを基準とし原理としてゐる間は、吾々は飽くまでも時間性に踏み留まりいつまでも永遠性に遠ざかつてゐる。古へより人は、或は主體自らに内在する本然の力を頼みとし、或は主體の自己主張を援助しそれの目的を達成せしめる世界乃至世界の根源としての最高存在者の力に縋つて、時間性と死とを克服する不死性の慰め豐かなる信念に到達しようとした。又或る人々、人類の最も卓れたる精神的指導者たちは、時間性とともにこの世の塵を拂ひ棄て、淨き純なるもののみの住む天上の世界に高く昇ることによつて、かくて無時間的永遠的なるものと愛の合一を遂げ又樂しむことによつて、自らも永遠性不死性を享受し實現し得ると信じた。しかしながらそれらの企圖それらの願望は悉く失敗と失望とを以つて報いられねば[#「報いられねば」は底本では「報いられぬば」]ならぬのである。眞の永遠性はアガペーにおいて又それによつてのみ達成される。絶對的他者との共同の成否のみ永遠性の成否を決定する。しかるに今やかくの如き共同かくの如き愛は絶對的他者そのものの創造の惠みによつて成立つことが明かになつた。この惠みに生きる限りにおいて人間的主體は永遠的生を生きる。永遠性は主體が、全く虚しくなり無に歸した自己を、自己のあらゆる存在を、かなたより來る愛の力・他者の力に獻げ打任かせ、他者よりして又他者においてのみ有り生きるものとなる處にのみ、生の新たなる思ひがけもなき性格として成立つ。言ひ換へれば、神の愛において又それによつて永遠性は成立ち、しかして、その愛に與かることによつて即ち自らも愛の主體となることによつて、否かかるものとして極みなき惠みにより創造されることによつて、人間的主體の永遠性・永遠的生は成就される。自らの力を恃まず、他者の力に一切を委ね、他者の惠みの賜物をすなほに受け容れる虚しき器となること、否しかさせられること、こそ永遠の世界へ通ふ一筋道である。
三 象徴性 啓示 信仰
三八
以上論述した所によつて、愛の共同においてのみ永遠性が求めらるべきことは明かになつた。しかしながらここにその共同の成立についてなほ立入つた論究を必要とする疑問が殘されてゐる。神の愛によつて成立つ共同において、無より創造されたる人間的主體はいかにして主體性を維持し得るであらうか。主體性を保つ以上主體は自己主張をもつて再び他者に衝突し更に新たに無におとしいれられて結局壞滅にをはるのではなからうか。絶對的實在者の外にそれと何等かの關係交渉に立つ獨立の實在者が存在することは全く不可能ではなからうか。かくて主體の主體性は神の絶對的實在性と兩立し難きが如く見える。――さて吾々は比較的手近かな疑問より先づ檢討をはじめよう。一旦無の中より浮び出た主體は更に再び無の中に沈み入るのではなからうかとの問に對しては、吾々は無よりの創造に關してすでに述べた所を想ひ起せば足りる。無より有へ呼び出されたる主體は決して單純なる有ではなく、又かくの如きものであらうともせず、むしろ再び沈み入らねばならぬであらう無を克服されたる契機としてすでに自己のうちに持つてゐる。無はそれの外に獨立の別個の存在を保ち、それが陷いり來るを待つてゐる如きものではない。無を豫め内に包含するが故に主體は壞滅を免れるのである。無の克服が一旦行はれた以上、主體は無の外にいはば安全地帶に避難して純粹の有を保ち又樂しんでゐるといふが如きものではなく、克服されたる無が主體の存在の中心それの本質の核をなしてゐるのである。すなはち主體は――時間的表現が許されるならば――いつも又絶えず無を克服しつつあるのである。それ故、古へよりしか呼ばれてゐる如く、主體の存在の維持はいはば「連續的創造」(creatio continua)なのである。
しかしながら、かくの如く主體は幸ひに壞滅を免れるとするも、結局主體性を失つて絶對的實在者のうちに吸收され埋沒するのではなからうか。地の表面の突出は山と名づけられて自らの存在を樂しむ如く見えるが、實は地そのものそれの形それの有樣に過ぎぬ如く、神よりして神において神へと有り又生きる自我、自己を他者へ投出した主體、は結局絶對者の存在の仕方それの自己表現の形相として、全く表面的從屬的なる、いはば幻に近きかりそめの存在を保つに過ぎぬのではなからうか。主體性には自らの中心より生き又働くことが本質的特徴である。これは、無より救はれたる、しかし無を核心に有する、絶對者を離れては全く無に等しき、人間的主體においては全く不可能ではなからうか。汎神論はいふに及ばず、通常有神論又は人格神論(Theismus)と呼ばれ宗教的色彩の濃厚さを自らも誇り人も許してゐる世界觀でさへ、この峻嚴なる論理的歸結を囘避し難い。神と人との關係は、プロティノスにおいての如く自然的流出と解されようが、スピノーザにおいての如く幾何學的必然性をもつてする因果性と解されようが、目的論的有神論においての如く世界の終極目的とそれの手段との關係と解されようが、或は又ヘーゲルにおいての如く他者を媒介として自己を實現する絶對的精神の辯證法的發展よりして理解されようが、――いづれにせよ、自己實現乃至自己表現の觀念以上に出るを知らぬ立場においては、絶對者は主體として自然的乃至文化的主體の型によつて理解される故、從つて又他者性は結局可能的自己性に外ならず克服されて消滅することに本分を有する故、この難問は到底解決不可能にをはらねばならぬであらう。
ここに吾々はさきに「象徴」と「表現」とについて語つた所を想ひ起すべく促される(一)。これらの兩概念の意義をすでに述べた如く規定するとすれば、表現は自己實現の活動の基本的性格をなすに反し、象徴は實在的他者との交渉を成立たしめる原理である。實在するものは決して他の實在者をわがうちに容れず、他者の侵害に對し飽くまでも抵抗をなす。このことは、更に立入つて推究めれば、實在者は主體性において自己主張の動作において成立つことを意味する。それ故自と他との兩實在者の交渉は、若し直接性においてのみ即ち兩者本來の傾向に任せたままで行はれるとすれば、一方の或は双方の、しかして他なくして一のみあることは本質上不可能である故いづれにせよ双方の、壞滅にをはる外はないであらう。かかる歸結に到達せぬ限り即ち自他共存が或る程度成立つてゐる限り、そのことは、他者が他者性超越性を保ちながら、しかも自他相通ずる何ものかによつて主體と相結ばれてゐることを必要とする。生が本質的に他者への生である以上、このことはそれのいづれの段階においても何等かの形において行はれねばならぬ。この任務に當るのが即ち象徴である。象徴は、理解を試みようとする場合、即ち反省と自己表現との立場に立つて取扱はうとする場合、極めて不可解なる殆ど自己矛盾的なる事柄として現はれるであらうが、吾々が現に生きる限りそのことと共に最も根源的なる事實であり、從つて存在の最も基本的なる原理である。日常生活もこれによつてはじめて成立ち得るのである。しかしながら今まで論じ來つた諸段階においては、生の象徴性は不徹底であつた。自然的生においては、それはわづかに壞滅を免れしめる程度のものであり、未だ共同を成立たしめるには至らなかつた。文化的生においては、共同は、他者性が象徴性を離れて自己表現を意味する限りにおいて、觀念的他者との間においてのみ成立つたのであり、從つて實在的他者との間においてはわづかに間接的にのみ成立つたのである。生の象徴性は、自然的生が基體をなす限りにおいてのみ、保たれたのである。しかるに自然的生の徹底化はむしろ自己壞滅從つて象徴性の破棄に存する外はない。それ故、自然的生從つて時間性の危機より救ふものは逆に象徴性の徹底化でなければならぬであらう。
吾々はかくの如き徹底的象徴性を神の愛・創造の惠みにおいて見る。さて、象徴性の最も手近かな又身近かな實例、あらゆる人倫的交渉の最も基本的根源的形態、あらゆる象徴性の理解の基準となるべき典型的體驗、は言葉である。「言葉」は人倫的交渉を媒介する固定したる客體的形象即ち符徴記號そのものの意義にも用ゐられるが、これはむしろ派生的意義であつて、根源的意義は、必ずしも固定したる客體的存在を保つを要せぬ何らかの形象即ち何等かの生内容が、他者を表はし指し示す象徴となることによつて、人と人との、實在者と實在者との、交渉乃至共同が成立つことに存する。それ故、古の思想家達殊にアウグスティヌスが明かなる概念的表現に移した如く、創造は「言葉によつて無よりなされる創造」と呼ぶことが出來よう。絶對的他者と人間的主體との共同は、神先づ語ることによつて絶對者自らの語る言葉によつて成就される。人間的主體は、何ものをも殘すことなく一切の存在を提げ、單に生の内容ばかりでなく中心そのもの主體性實在性そのものをも携へ、全き自己と自己實現とを捧げて、徹頭徹尾他者の象徴となる、否、ならしめられる。自然的生を基礎とするあらゆる生においても、實在的他者との交渉は象徴を通じて行はれるが、その場合象徴となるものは生の内容のみであつて生の中心ではない。主體性實在性そのものは象徴の外にある。從つて象徴となりたる乃至なりうる内容は自己表現の性格を飽くまでも保存する。共同が成立つとしてもそれは部分的斷片的であり、何等かの制約理由の下に立つ。幸ひに眞實の共同、他者を出發點とし原理とする共同、の閃きは見えるとしても、それは忽ちにして消え失せ、殘るはたかだかかかる共同への努力のみとならう。これはエロースの立場であり、根柢において他者への單なる憧れの性格を保つのである。之に反して成就されたるアガペーにおいては、主體性までが象徴化する。主體のあらゆる存在は中心に至るまで他者へと獻げられる。それの全き自己は無に歸する。このことはすでに他者の働きであり惠みである。しかもこれは事の終極ではない。無を克服されたる契機となしつつ、ここに更に同じ他者の惠みによつて有が生れ出る。かくの如き死を通じてはじめて成就される生、しかも他者への生、こそアガペーであり、かくの如き徹底的象徴化こそ創造である。今宗教的用語をもつて言ひ表はせば、神の見る所欲する所は我の見る所欲する所となり、我は神の意志を爲す以外に我自ら爲す所なきに至るであらう。主體性まで象徴化されるに至らぬ間は、「自己」の象徴化は命令・當爲等の性格を脱し得ぬが、他者の惠みの徹底によつて、當爲は現實に、爲すべき事は爲す事に化し、生は新たなる中心より新たなる力として新たなる内容を具へておのづから湧き出るであらう。共同はもはや表面と
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