しろ恠しむに足らぬであらう。「他者」及び「他者性」の三つの異なつた意義に關しては本書の諸處殊に九節參看。
(三) それ故、例へばキリスト教神學の説くキリストの神聖は、神の神聖性の必然的歸結とさへいひ得るであらう。
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        三六

 神聖者はそれの絶對的實在性をもつて破壞の力として働くばかりでなく、又建設の力として働く。あらゆる存在を奪ひ取る力はまたあらゆる存在を與へる力である。神は全能であり一切事物の根源であるといふ思想はあまねく諸宗教に行渡つてゐる。「創造」の思想も、それの一形態として、同じく神聖性の積極的方面に源を發する。しかしてこの思想こそ吾々を上述の難關より救ふものなのである。世界が、そこに見られるあらゆる秩序や形態や生命を缺如する、渾沌たる何ものかより造り出されるといふ思想は、未開人並びに古代人の宗教の間に極めて廣く弘まつてゐる。かかる世界發生の原動力としては通常宗教的崇拜の對象である神が考へられる。この場合形造られて世界となるべきものは何ものかとして即ち存在者としてすでに前提されてゐる。しかるにかかる働きは創造といふよりはむしろ形成と名づけらるべきものである。神の働きは質料と形相との間を往來する自己實現・自己表現從つて活動の性格の擔ふ。神は文化的生の像を借りて表象されてゐるのである。かかる表象が神聖性を表現するに不適當であるはいふまでもない。神の絶對的實在性は他の仕方をもつて表現されねばならぬ。「創造」の觀念が即ちそれである。これは神の働きに質料又は制約として豫め前提されるであらう何等かの存在者を否定する點にそれの特徴を有する。神は何ものの牽制をも又促進をさへも受けることなく、ただ自らの本質の計り知れぬ深みより、何ごとによつても理由づけられることなく又何ものの媒介をも俟つことなしに、徹頭徹尾自由に他者の存在を設置する。このことは通常「無よりの創造」(〔Scho:pfung aus Nichts, creatio ex nihilo〕)と名づけられる。これはもと古代宗教の世界形成の神話に端を發したものであるが、キリスト教において體驗の深化によつて醇化されつつ、それの最も重要なる教義に數へられるに至つた。すでにパウロにおいて明瞭なる思想的表現を見たが、後世に最も深き影響を及ぼした神學的概念的表現はアウグスティヌスにおいて見出さるべきであらう(一)。
 さて神の愛はかくの如き創造、無より有を呼び出す働きなのである。逆に言つて、宗教においては創造は人間的主體を壞滅の淵より救ひ出す神の愛として特に體驗される。その他の意義は、宗教においては、この基本的體驗によつて根據づけられたるもの乃至はそれより派生したるものとしてはじめて考慮に値ひする(二)。しからば神の愛としての創造はいかなる働きであるか。それは他者を、この場合人間的主體を、無に歸せしめると共に、有へと、即ち實在するもの自らの生の中心を有するものとして、從つて實在的他者として、無より呼び出し造り出す働きである。吾々は今この事を次のやうに理解することが出來よう。
 眞の愛の成立には、人間的主體がそれへと向つて立つ所の他者が、絶對的他者・絶對的實在者であることが必要である。この必要は宗教的體驗が神聖と呼ぶ所のものによつて充たされた。この場合神聖者は人間的主體の愛の對手をなすものである。しかるに愛がかくの如く人の側のみの事柄である間は、それは、それを成立たしめる筈の又しかなし得る筈の絶對的他者そのものによつて、却つて壞滅の運命を見ねばならぬのである。愛の共同は主體にとつて存在そのものに必要である。愛が成立つことによつてのみ、それは他者への又他者との存在としてのそれの本然の性、主體性、に生きることが出來るのである。自然的生を超越して文化的生に昇り、エロースにおいてこの要求を充たさうとした主體は、つひに失敗にをはらねばならなかつた。しかるに今や最後の試みである宗教への飛躍も同樣の危險に晒されることが明かになつた。この場合難關の突破は全く主體の權限と能力とを超越する事柄である。若し可能とすれば、その可能性は全く他者の側にのみ存するであらう。このことは何を意味するか。神聖なる他者は、神聖なるとともに、否神聖なるが故に、また愛であること愛の主體であることを意味する。すなはち、神の愛が人の愛に先だつこと、後者の根源としてそれをはじめて可能ならしめるものであることを意味する。
 神聖者は上述の如く絶對的實在者である。從つてそれ以外に存在はあらう筈がない。若しあるとすれば、それは絶對者そのものに過ぎぬであらう。しかるに單獨に自己のみに生き自同性にのみ留まる絶對者は、無限に擴がつた圓周の圓心が中心たるを止めておのづから消滅に歸するが如く、結局空虚そのものにをはるであらう。それ故絶對者は自己の外に何ものかを有せねばならぬであらう。さて、この何ものかは、或は思惟の事柄であり從つて觀念的の何ものかであるか、或は事實であり從つて實在的の何ものかであるかである。今思惟の事柄であるとすれば、絶對者は、立入つて何と考へられようと、例へば實在者從つて充實したものと考へられようと或は反對に空虚そのものと考へられようと、結局他者性を媒介として自己同一性を貫徹しようとするもの、他者において自己を實現しようとするものとして、言ひ換へれば、文化的主體の像によつて、表象される外はないであらう。これは率直に單純に空虚に留まるべきものがただ一時遁がれの手數をかけるといふだけに過ぎぬであらう。之に反して他者を事實的存在の事柄とすれば、それはただ宗教的體驗においてのみ與へられる。宗教的體驗の外においては、絶對者も他者も先づ客體として從つて思惟の事柄として與へられねばならぬ。ただ宗教的體驗においてのみ主體は自ら實在者として實在する絶對者と交渉乃至共同に立つを知る。絶對者が實在する他者を自己の外に有することは、事實としてはただここでのみ與へられる。すなはちここでのみ絶對者の問題は眞實の問題として成立ち得る。
 その問題は簡單にいへば次の通りである。絶對者神聖者と關係交渉に立たうとするものそれと接觸するものは無に歸する外はなく、それに對して他者であるものは非存在者以外にあり得ぬならば、いかにして主體は我自らは現にそれの面前に立ちそれの他者として存立し得るのであらうか。創造と神の愛とがこの問に對する答へである。「無よりの創造」はややもすれば、無先づあり神がそれに働きかけてその中より有を造り出す、といふ風に表象され易い。しかしながらかかる表象に譬喩的表現以上の意義を許したならば、甚しき誤解を免かれ難いであらう。神の働きを時間的に畫がくことの不穩當を除いても、そこでは神の働きが文化的活動の像によつて表象されるため、無は嚴密の意味の無ではなく、存在の一種の仕方、この場合可能性乃至質料としての有り方に過ぎぬものとなつてゐる。周知の如く、文化主義に徹底したギリシア人はかくの如くに 〔me_ on〕(無)を考へた。しかしながら無は有の傍ら又は外にそれ自らの存在を保つものとして存在してゐるのではなく、單なる契機しかも克服されたる契機として有のうちに包含されてゐるのである。主體を無であらしめ壞滅の中に葬る絶對的他者の同じ働きが、又それにそれの有するあらゆる存在を、殊にそれ自らの中心と獨立性とを、與へるのである。「無より」といつて無を先行せしめるのは、他者との共同においてのみ成立つそれの性格が無の克服の土臺の上に成立つこと、從つて無を止揚されたる契機として内に含むことを意味するに外ならぬ。言ひ換へれば、創造によつて有も無も一擧に成立つのである。ただ無は有の中に滲込みそれを稀薄にする成分從屬的成分に過ぎぬ。無の克服によつて絶對者は人間的主體に主體性を與へつつ、しかも依然自ら絶對性に留まるのである。否それどころか、絶對者は無とそれを克服する有とを一擧に成立たしめることにおいて、又かくして成立つた共同においてのみ絶對者なのである。今この事態を自然的生の場合と比較するならば吾々はそれがいかに重大なる意義を有するかに驚くであらう。自然的生においては有は無を克服されたる契機としてうちに含むことなく、即ち無を經由することなく、直接的にまつしぐらに自己を主張したればこそ、主體は他者とただ衝突するのみ、主體の存在と他者の存在とは共存に達し得ず、そのことの歸結として主體はわが外へ無へと押出され陷入れられたのである。ここでは有は無に先行した。そのことは有は無に歸し自己に留まり得ぬことを意味した。しかるに今や創造は事の順序を全く顛倒することによつて主體を壞滅より救ふのである。無を外にではなくはじめより内に有する主體のみ自然的生と從つて時間性とを克服して眞實の愛に生き得るのである。
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(一) パウロ、ロマ書四ノ一七。邦語譯に「無きものを有るものの如く呼びたまふ」とあるは少なくも不穩當である。原語の”〔kalountos ta me_ onta ho_s onta〕“において 〔ho_s onta〕 は古代の解釋家もすでに説いた如く 〔ho_ste einai〕 の意に、即ち「無より有を呼び出す」の意に解すべきである。かかる語法が古典ギリシア語においてもすでに存在したことは、いづれの文法書にも記されてゐる事柄である。――アウグスティヌスについては特に Confessiones. XII, 7 參看。――パウロにおいて「無よりの創造」が宇宙論的觀點よりではなく、神の愛の宗教的體驗の觀點よりして解されてゐることは特に注目に値ひする。
(二) 哲學においてはすべての理論的形而上學と同樣に世界創造の思想が甚だ貧弱な根據しか有せぬことは今更ら取立てて言ふまでもない。
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        三七

 創造において人間的主體は神の愛を體驗する。我にとつて絶對的他者である神は、しかも我に近寄り接觸し、否、我の存在の最深最奧の中心にまで入込んで、我を根本より改造する。接近を嚴禁する神は、いはば自らその禁を犯し自己を抛棄して、他者との滅びぬ共同を設置する。この共同は何ものか又何事かによつて媒介されるのでなく、何等かの理由や目的によつて制約されるのでもなく、自己目的であり無條件的である。共同は共同のために共同によつて成立つのである。この共同の設置こそ創造である。人はこれを理解しようとして、これをいくつかの要素又は契機に分析しそれらの間の聯關や秩序を説くであらう。しかしながら、前にも述べた如く、かくの如きは、あらゆる時間性を超越した神の動作を時間性の制約の下に立つ人間的文化的生の型に嵌めて表象するのであつて、吾々はこれによつて恰も神の本質の客觀的理論的認識に達し得るかの如き錯覺に陷るを常に警戒せねばならぬ。すなはち吾々は合理主義の誘惑を斥けていつも宗教的體驗の語る所に耳を傾けるを怠つてはならぬ。しかしてかくの如き態度を取る時吾々は創造が決して神の單なる自己主張自己實現の動作ではなく、他者本位の愛の行爲であるを解するであらう。神においては愛と創造とは全く同じ事柄の二つの異なつた見方呼び方に過ぎぬといつても過言でないであらう。吾々日常の經驗に徴するも、純眞なる愛は自己省察によつては知り難きものである。今假りに吾々自身アガペーまで昇り得たとして――かくの如き自信ははじめより自惚自己欺瞞の危險に晒されてゐるが――しか假定して、吾々の自己省察の目の前に先づ浮び出るものは、活動の性格を帶びた自己實現の姿である。自己省察によつて知られる愛はエロースなのである。ただ他者が愛の主體であり、吾々自らが愛せられるものとして、身にしみじみと愛の力を感ずる時、吾々は人間にあり得る限りの眞の愛の淨き閃きに打たれる。人の愛と同樣に神の愛に關しても、吾々は愛せられる者として即ち宗教的體驗において、はじめてそれの何ものかを知るのである。宗教的體驗を離れて神の愛そのものを直接に認識しようとすれば、今假りに人間の認識能力にこの不可能事が許されるとし
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