を媒介する觀念的存在者を全く離れて成立ち得るものの如く考へるは、もとより甚しき謬見であるが、特定の制約の下に立つそれらの共同に、その制約を超越し場合によつては克服して新しき意味と精神とを與へる所に、アガペーの働きは見られるのである。このことはややもすれば、あらゆる差別を撤廢した博愛、あらゆる特殊の人倫關係を離脱して人類一般を眼中に置く人類愛、などの意義にのみ解され易い。しかしながら遠近・廣狹・大小・普遍・特殊等の差別が規定原理として愛の成立を支配する間は、いづれの方向に傾くにせよ、その愛は依然エロースの性格を擔ふのである。人と人との共同はもとより人間性の地盤の上に行はれる。しかしながらその共同の特徴が人間性を唯一乃至最高の規定原理とするといふことに盡きるならば、それは結局人間的主體の自己主張自己實現の一形態であるに過ぎぬであらう。之に反してアガペーの第一の特徴はむしろ媒介するあらゆる規定原理を超越乃至克服して無制約的に他者を原意とする點に存するのである(二)。主體の側よりいへば、それによつて成就さるべき何事かがあるのでもなく、又それを促がす何事かの必要があるのでもない。他者の側よりいへば、あらゆる性質・資格あらゆる價値觀念は全く超越乃至克服される。いづれにせよ共同を理由づける何ものも存在しない。尤もいつまでも努力の性格を脱し切れぬ現實的生においては、アガペーは自己實現の努力の土臺の上に建設されねばならぬ故、それは先づ、他者によつてのみ規定され從つてあらゆる媒介的規定の制約を離脱した點において、又その意味において、自由なる共同への努力の形を取らねばならぬであらう。
主體性は自己の存在の主張であり從つて愛の共同も自己實現の地盤にのみ發育し得るといふ事態はアガペーの本質の理解を甚しく困難ならしめた。アリストテレスがすでに洞察した如く、人間性の立場においては、いかなる愛も根源においては自愛なのである(三)。それ故アガペーの體驗に惠まれた人々も、それの理解へと自己省察を試みる場合には、人間的主體の基本的性格をなす自己實現の姿に眩惑されて、アガペーの特殊の性格を見失ふ恐れがある。後の思想に深甚の影響を及ぼしたアウグスティヌスの如きその事の最も顯著なる一例と見るべきであらう(四)。彼においては caritas ――ラテン語において agape に當る――は自愛(amor sui)の一種、ただ最も卓越した一種に過ぎぬ。すべての愛は自愛であるといふ根本的性格においては變りはないが、ただ對象を異にするのである。愛の對象は善即ち價値である。最高價値即ち神へと向ふ愛が、乃至人への愛としては神への愛の特殊の從屬的發現形態と見るべきものが、カリタス(アガペー)なのである。若しかくの如くであるとすれば、エロースとアガペーと間には、ただ程度的部分的相違があるのみであらう。價値は主體の自己實現の制約乃至契機をなすものとして觀念的存在者である。かくてアウグスティヌスが共同の對手としての實在者を殆ど見失はうとした點も注意に値ひする。愛の對象である限りにおいては神も人も結局觀念的存在者、プラトンがイデアと呼んだものに過ぎぬであらう。さてかくの如きがエロースの思想の行くへであることはすでに述べた通りである。
以上述べた所と聯關して又それの歸結として、アガペーの第二の特徴をなすは自己抛棄、犧牲、獻身、去私、沒我、等の語によつて言ひ表はされたる主體の態度である。尤もいかなる愛も他者との共同である故、いづれの場合にも自己性の或る形或る程度の克服はあり得る。卑近な一例を取れば、財を蓄積するために肉體的感能的快樂を擲つも一種の自己克服であるに相違ない。しかしながら、かくの如き場合においては、否遙かに高尚純潔なる場合においても、いつも一つの自己が他の比較的價値の高き自己のために犧牲に供せられるに過ぎぬ。そこには部分的自己の相對的抛棄があるのみである。しかるにエロースとは方向を全く逆に取るものとしてアガペーにおいては、自己の全體性の無條件的抛棄が要求される。尤もこのことは決して人間的偉大さを示すやうな花々しき英雄的動作や人を驚かせるやうな目ざましき歴史的大事件を特に意味するのではない。それは日常萬般の些細なる事情の下平凡なる行爲においてもそれを活かす精神としていつも要求されるのである。すなはち、あらゆる人倫的間柄において對手において人格を見、人格に對して取るべき態度を取るのがアガペーである。人格を簡單に定義すれば、カントに從つて、手段として用ゐられることなく自己目的としてのみ成立つもの、といひ得るであらう(五)。これを言ひ換へれば、他者は飽くまでも他者として留まり、自己實現の一契機に墮ちることがなく、それとの共同において主體はいつも他者を本とし他者より出發し、從つて自己性を投出して他者において他者よりして生きるところに、人格性は成立つのである。
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(一) 語學的乃至文獻學的諸問題に關しては 〔W. Bauer: Gr.−deutsches Wo:rterbuch zu den Schriften des N. T. u. s. w.; Gerh. Kittel: Theologisches Wo:rterbuch zum N. T. Bd. I.〕 參看。但し語學的文獻學的觀點より觀たのみでは到底問題を解決し難きことは、プラトンが(SymP. 180 b)〔agapao_〕 を殆ど 〔erao_〕 や 〔phileo_〕 と同義に用ゐてゐる一例によつてもすでに證明される。――Nygren: Eros und Agape. 〔2 Ba:nde〕. は類型論的論究とキリスト教における發展の歴史的敍述とを兼ね備へたものとして、アガペーの觀念に關して最大の貢獻をなした書である。ただ「神への愛」にそれの重要性にふさはしき評價と理解とを寄せ得なかつたことが、この書の惜むべき缺點である。
(二) 所謂「隣人愛」(〔Na:chstenliebe〕)はこの意味においてのみアガペーの實現形態となり得る。
(三) Eth. Nic. IX, 8.
(四) アウグスティヌスに關しては「宗教哲學」三九節、及びその後に現はれた Nygren 第二卷の卓れたる敍述及び解釋、參看。
(五) 「人格」に關しては「宗教哲學」二九節以下參看。
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二 神聖性 創造 惠み
三五
アガペーの本質的特徴が以上の如くであるとすれば、ここに極めて重要なる歸結が現はれて來る。それは、アガペーにおいて共同の對手として立つ他者は可能的自己の性格を保つこと無き眞實の他者でなければならぬ、といふことである。しからば、それがエロースにおいての如く觀念的存在者であり得ぬこと、むしろ反對に、實在的存在者でなければならぬことは、おのづから明かであらう。しかるに今までに知り得た實在的他者は、主體と自然的直接的交渉において立つ自然的實在者の外にはなかつた。若しそこへ立戻るとすれば、そのことは文化的生によつて試みられた共同のためのあらゆる努力の無意味と、しかして生の原始的自己爭鬪の有意味とを、宣言するに等しいであらう。生がここに最も重大なる危機に遭遇したことは疑ひの餘地がない。若しここに新たなる天地が開かれぬならば、生は絶望の淵に沈む外に途はないであらう。しかも吾々當面の關心事である永遠性の問題にとつても、解決の成否は一にこの難關を突破し得るか否かに懸かつてゐる。主體の存在を非存在への沒入より救ひ、滅びぬ現在を確保することは、實在的他者との共同に俟つほかはない。かかる他者は果して又いづこにあるであらうか。ここに吾々は宗教への轉向點に立つ(一)。
宗教的體驗において主體に對して他者として立つもの――通常「神」と名づけられるもの――の最も基本的なる特徴は、宗教自らの言葉を用ゐれば、「神聖性」である。神は侵すべからず近寄るべからざるもの、あらゆる現實的存在、世間的又は世俗的と呼ばれる存在、より全く隔離したるもの、自己を主張しつつそれへと近寄り侵し來りそれをわが内に取入れようとする人間的主體に對しては、本來の極みなき尊嚴と威力とを發揮して惜氣もなくこれを壞滅の中に葬り去るものである。存在論的に言ひ表はせば、それは實在者、主體にとつては實在的他者であり、飽くまでも妥協せず讓歩せず徹頭徹尾實在性他者性に留まる點において、絶對的實在者・絶對的他者である。かくの如きものとして、それは一方、主體に對して可能的自己の性格を保つ觀念的存在者とは異なつて、飽くまでも眞實の他者であり、しかも他方、自然的生における實在的他者が、主體とまつしぐらに相衝突し壞滅をもつて主體を脅かす代りに自らも主體の侵害の危險に晒される、時間性可滅性に委ねられたる他者に過ぎぬとは異なつて、飽くまでも他者性を守り拔き貫き通す實在的他者である。愛の共同の對手としてそれは正に必要條件を充たす如く見える。現に宗教的體驗は最も重要なる内容として神の愛と神への愛とについて語る。ただ問題は絶對的實在者・絶對的他者との共同が果して又いかにして可能であるかに存する(二)。
この共同が成立つためには神の神聖性、絶對的他者の絶對的他者性實在性、は飽くまでもそれとして貫徹されねばならぬ。このことは何を意味するか。人間的主體が全く無に歸せねばならぬを意味する。自と他との共同は、究極においては何であらうとも、とに角先づ直接性における交はり即ち接觸でなければならぬ。媒介が可能とするも、それはいつも媒介の任に當る直接者の存在を必要とするであらう。しかるにここでは主體と他者との間に媒介の任に當り得る第三者は存在し得ないのである。今假りに觀念的他者がそれとすれば、これは主體を再び文化的生とエロースとへ押戻すであらう。實在的他者がそれとすれば、それが絶對的實在者でない以上、主體は更に逆轉を續けて自然的生と根源的時間性とへ墜落せねばならぬであらう。假りにかかる歸結を考慮の外に置くとするも、第三者と絶對的他者との間には結局同じ問題が繰返へされねばならぬであらう。かくて主體は絶對的他者と先づ直接的交渉に入らねばならぬのである。神との共同に入らうとするものは先づ自ら神の面前に立たねばならぬのである。神聖なる者の尊嚴と威力との前には逃げ隱れはもともと全く不可能なのである。若し現實に存在する諸宗教のうちに、絶對的他者と人間的主體との間を媒介する第三者を説くものがあるとすれば、その場合その第三者は實は第三者でなく神そのものであるか、さもなければ、神は實は神でなく、言ひ換へれば、神聖性は不徹底なるものにをはるか、に外ならぬであらう(三)。それ故、繰返へしていへば、人間的主體は共同に入るとともにすでに先づ神を直接に接觸せねばならぬ。しかるにこのことは、上に述べた如く、壞滅を意味する外はないであらう。何ものをも燒き盡さねば止まぬ神聖性の猛火の中に灰燼に歸した主體は、いかにして生の中心・働きの出發點としての實在性・主體性を保有乃至獲得し得るであらうか。
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(一) 「宗教哲學」四二節以下參看。
(二) K. Barth (”Kirchliche Dogmatik.“I, 2. S. 425 ff.) は愛はいつも對手(〔Gegenu:ber〕)對象(Gegenstand)をもつ、即ちいつも他者(der Andere)を愛すると説いて、その限り、正しき理解を示したが、舌の根の乾かぬ間に ander といふ語を無造作にも andersartig に置き換へてゐる。すなはち、神が人の愛の對象である以上、その對象は對象であるが故に主體である人間とは全く類(性質)を異にする存在者でなければならず、逆に人間は神と全く類(性質)を異にする存在者即ち罪人でなければならぬ、といふのである。驚くべき殆ど無鐵砲ともいふべき論の立て方である。尤もややもすれば論理よりも修辭によつて思想の力よりも感情の勢ひによつて動く癖のあるこの神學者においては、このことは或はむ
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