、又絶えず流れ絶えず移りつついつまでも未完成のまま斷片的のままに止まることをその生に強ひる。そのことに應じてエロースとしての共同はいつも斷片的不安定的である。愛は他者に達し他者を所有してはじめて滿足する。しかるにここでは得るは即ち失ふであり、滿足はいつも新たなる不滿足に早變りする。プラトンの巧妙なる寓話の教へる如く、エロースは、「貧しさ」(Penia)が己が苦境を遁れようとして「工面の善さ」(Poros)と野合を遂げて生んだ混血兒に外ならぬ(三)。他者への憧れ他者への思慕こそこの愛の本質である。
 愛は永遠について語るを好み永遠に變らぬを誓ひさへもするが、文化的生の段階において從つて人間性の及ぶ限りにおいては、時間性の覊絆を脱することの不可能は明かである。愛において主體は他者との共同を求めるが、その共同が成立つことは、言ひ換へれば、他者が自己のうちに取入れられることは、取りも直さず、共同の消滅と新たなる共同への新たなる希求とに外ならぬであらう。共同の可能なるためには他者が飽くまでも存立することが必要である。かかる他者は實在的他者に求める外はない。このことは自然的生が文化的生の基體としていかに重要なる役割を演じてゐるかを指し示すであらう。しかるにこの自然的生はそれの二重性格によつてあらゆる活動を從つて愛をも自己矛盾に陷らしめ、かくて時間性の桎梏に呻かしめる。それ故時間性を克服し永遠性を成就するためには、自然的生そのものを、從つてそれと聯關して、活動としての生の性格を克服せねばならぬ。しかしてこのことは他者との間に搖ぎなき生の共同を確立するを意味する。主體も他者も衝突や侵害によつて互の存在を壞滅に陷れるを止め、かくして兩者の間に一致和合の完成を見るに至つたならば、生のあらゆる不安定性未完成性斷片性はおのづから跡を絶ち、永遠性はそれの充ち足る姿を現はすであらう。
 さてこの任務の遂行には古へより哲學と宗教とが當つてゐる。哲學的永遠性即ち無時間性についてはすでに詳しく論述した。觀想は活動の一種でありながら、しかも活動の性格の克服、更に根源まで遡れば、自然的生の支配よりの解放を目指して動く。從つてそれの行へは、他者としての客體が全く自然的實在者との聯關を打切つて、自由獨立なる自主的存在を確保した處に存せねばならぬ。哲學が對象とするものはかかる純粹客體である。純粹客體は一切の時間性を離脱し過去現在將來の別を超越して、とこしへに變らぬいつも同じき存在を保つ。かくの如き無時間的超時間的存在こそ哲學が永遠性と名づけるものである。これらの諸點についてはもはや立入つて繰返へす必要はないであらう。かくの如き純粹觀想においては對象從つて他者と主體との間に極めて親密なる共同が成立つ。活動において存在した客體面の凹凸、自己性と他者性との間の緊張はここでは取除かれ、僅かに客體が客體として成立ち得るだけの他者性しか殘り留まらぬ故、主體(自我)と他者との間に成立つ一致和合は最高度のものである。それ故、この立場においては、哲學における乃至哲學によつて到達される主體と對象との間柄は、愛の最も優秀高級なるものと看做さるべきであらう。歴史的事實としては、プラトンが最も勝れたる意味においてエロースの名をそれに與へて以來、アリストテレスやプロティノスを始めとしてかれの思想の影響の下に立つた思想家たちのうちには、何等かの形において直觀と愛との、取分け神の(に對する)直觀と愛との、同一性乃至極めて親密なる聯關を説いたものが多い。後の思想に深き影響を及ぼしたアウグスティヌスの caritas(愛)の思想においても、それと神の直觀との關係は、それが或は後者の前階であるかの如く或は後者を包含するかの如く幾分の不明瞭を留めてはゐるものの、極めて親密であつたことは爭ふべくもない(四)。スピノーザの amor dei intellectualis(神の知的愛)の如きも最も傑出した一例として擧ぐべきであらう。
 しかして、哲學における純粹觀想が文化的生の本質をなす自然的生よりの解放の徹底である如く、哲學の本質をなす純粹客體としての眞理への愛も亦文化的エロースの徹底化である。エロースは對手の實在者との共同を觀念的存在者をして媒介せしめる。かかる媒介者こそそれにとつては直接的交渉に立つ他者なのである。今自然的生との聯關を斷ち切り從つてあらゆる土臺と支柱とを取除いて、直接的交渉者の獨立性を設定し貫徹したとすればどうであらうか。そこに現はれる姿は純粹客體との共同としてのエロースの外はないであらう。時間性よりの離脱はかくの如き飛躍上昇を要求するであらう。この點に關してもプラトンは(「饗宴」篇において)示唆に富んだ先蹤を遺した。愛は先づ自然的實在者即ち人又は物、特に人に向ふ。その際媒介をなすは美である。しかるに美しき對象への愛は又他方「よきものが永遠に自己のものであること」へと向ふ。すなはち善において價値において自己を實現しつつ永遠性不死性を獲得することがエロースの努力の向ふ所である。その際美は、善の特に優秀なるものとして、結局一切の價値を支配し包括する。さて、愛がなほ自然的實在者へと向ふ間は、不死性(永遠性)は、或は子孫における生の存續の如き或は後の世に遺される不滅の名不朽の功績の如き、いはば間に合はせの代用品をもつて滿足せねばならぬ。しからば眞の不死性はいかにして獲得されるか。自然的實在者との聯關を斷ち切ることによつて。すなはち、主體は先づ活動より觀想へと轉じる。次にそれは美しきものの段階を、物質的のものより精神的のものへ自然的のものより文化的のものへと、しかも特にそれらを美しくあらしめる共通性に注意を拂ひつつ、一段一段と昇る。昇り切つた處突然眼前に立現はれるものは何であらうか。美そのもの――時や處やその他すべての關係性を超越し、基體としての自然的實在者をも離脱し、それ自らとしていつも同一なる自己の姿と生ずることも滅びることもなき永遠の存在とを保つ、自主獨立的存在者としての美、美のイデア――のくすしく妙へなる姿である。この純粹形相の直觀において主體は客體と完全なる合一を遂げかくて不死性(永遠性)を成就する。
 ソクラテスとの比較は甚だ興味深き聯關と對照とを示すであらう。かれにおいてはエロースは指導者と被指導者との間に成立つ生の共同であり、その共同は實踐的人倫的活動の諸能力を養ふに必要なる識見の獲得を目的とする。その場合それらの諸能力の定義即ち概念規定に關して論議は交はされるも、それはかの主要目的達成の一手段に過ぎぬ故、概念的認識が獨立性や優越性を主張するやうなことは全く見られない。アリストテレスは、認識の原理に關して歸納法と普遍的概念規定とを發見乃至主張したことを、ソクラテスの功績として擧げた(五)。すなはち彼の解釋によれば、ソクラテスは物の本質が概念的普遍者に存するといふ眞理を發見し、ひたすら概念的規定即ち定義の獲得へと努力したといふのである(六)。しかしながらこれは、アリストテレスが自己の哲學的立場より、即ちソクラテスをもわが先驅者となさうとする意圖より、下した主觀的解釋に過ぎず、ソクラテスにおいてはむしろ一切が實踐的なるものを目指したことは、かれの著しき特徴として特に強調すべきである。このことと聯關して、かれにおいては觀想が優位を占めるといふことはなく、又それの對象が自然的生との聯關を離れて獨立性を保つといふこともない。更に又このことと從つて人倫的活動の強調と聯關して、彼においてはエロースは飽くまでも人倫的共同從つて實在者の間の共同に踏留まつてゐる。プラトンは指導者と被指導者年長者と年少者との間に存するかくの如き生の共同をそれの人倫的從つて實在的基礎より切離し、媒介者の役を務めたに過ぎなかつた觀想とそれの對象とに終極性を與へることによつて、哲學的エロースの思想を創造した。エロースとしての愛の立場においてはこれこそ本來の傾向の徹底といふべきである。
[#ここから2字下げ]
(一) esti gar ho philos allos autos. ―― Aristoteles: Eth. Nic. 1166 a.
(二) 活動に關しては八節以下參看。
(三) SymP. 203.
(四) 次の二書參看。Holl: Gesammelte Schriften. III. S. 81 ff. ―― A. Nygren: Eros und Agape. II, S. 321 ff. ――中世的世界觀の詩的代表者として、ダンテの「天國」篇も勿論一例として擧げることが出來よう。例へば人口に膾炙する次の句參看。
 〔Licht der Erkenntnis ganz erfu:llt von Lieben〕,
 〔Lieben des wahren Guts, voll Fro:hlichkeit〕,
 〔Voll Fro:hlichkeit, die Worte nie beschrieben〕.
    (Par. XXX, 40. Nach Gildemeister.)
(五) Metaphysica. 1078 b, 17 ff.
(六) Zeller がこれを採用して以來これは最も廣く行はれた解釋である。それの誤謬を示し正さうとしたことは H. Maier (”Sokrates.“1913) の功績といふべきであらう。
[#ここで字下げ終わり]

        三四

 以上論じ來つたエロースより區別されるものとして、「アガペー」(〔agape_〕)の名を以つて呼ばれる愛がある(一)。これは歴史的にはキリスト教の世界において特に力強き原理的主張を見特に顯著なる術語的理論的表現を遂げたが、實質的にはいづこの世界にも見られ得るもの、日常の生においても、すべての人倫的共同に眞の生命を與へつつ、この世ならぬかなたの世界の閃きを示すものである。エロースは自己實現の性格を擔ふ生の共同である。故に若し、不可能なる極限の場合ながら、この性格が徹底化を見たと假定すれば、主體は他者を完全に自己のうちに取入れ完全に克服することによつて自己を無際限に擴張するであらう。その際「現在」は完全に一切を支配し盡す故、全き永遠はわれの所有に歸するであらう。無限者と合一し一切の存在をわが懷に抱いた我は全身をもつて窮みなき歡喜と幸福とに浸るであらう。しかしながらかくの如きは、すでに論じた所で明かである如く、身の程知らぬ文化的人間的主體の誇大妄想に過ぎず、エロースの完全なる成功は取りも直さずそれの完全なる失敗に外ならぬのである。しかるに之とは根本的に異なつて、アガペーは正反對の方向を取る。それは他者より發して自己へと向ふ。それは他者を原理とし出發點とする生の共同である。他者を主となし自己を從となすこと、他者を規定者自己を被規定者となすこと、はそれの基本的特徴である。この愛が志す所を成遂げ本來の性格を徹底せしめたならば、自己は無に歸して他者のみ有る生の共同が成立つであらう。このことは自己實現を本質とする現實の人間的主體にとつては勿論不可能の事である。現實の人倫關係は原則的にはエロースとして成立つてをり又しかせねばならぬのである。アガペーの本質には超越性がはじめより宿つてゐる。しからばそれはエロースの如く本來の不可能事を要求するだけのものであらうか。或は却つてこれこそ眞實の愛であり、エロースはこれによつて活かされることによつて、否むしろこれによつて克服され止揚されこれのうちに死し葬り入れられることによつて、はじめて愛として甦へり自と他との共同として成立ち得るのではなからうか。
 吾々は先づ少しく立入つてアガペーの諸特徴を考察しよう。人間の現實的生は自然的生の土臺に築かれたる文化的生としてのみ成立つ故、エロースの性格を全く離脱したる純粹の單獨のアガペーといふが如きものはもとより現實的には見るを得ぬ事柄であるが、後者の出現は前者に一定の特色と傾向とを與へることによつてそれと知られる。人と人との愛を、あらゆる人倫關係を離れ從つてそれ
前へ 次へ
全28ページ中18ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
波多野 精一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング