中心從つて實在性を缺き、主體の自己實現の契機をなすを本質としたが、それだけに、主體の生存の基ゐであり源である自然的生即ち實在的他者との交はり、並びにその源より發する時の流れに對しては、手を拱いてそれのなすがままに身を任かせるより外に途がなかつた。それ故時間性の克服は、生の部分的彌縫的改修の企てが擲たれて、根本的全面的革新が成就されるに及んではじめて可能となるであらう。すなはち、實在的他者との全く新たなる交はりが成立ち、かくして他者も主體も全く面目を新たにする處においてのみ、永遠性の確立は望み得べきであらう。「愛」こそかくの如く全く更新される生の姿である。吾々は文化の境を越えて宗教の領土に進み入らねばならぬ(一)。
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(一) 以下の論述に關しては「宗教哲學」三七節以下參看。
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        三二

 愛は主體の他者との生の共同である。主體は生きるもの自己を主張するものである故、愛はかかる共同を成立たしめ乃至維持する努力と動作とを包含する。共同は活きた關係であり、靜止と固定とを許さない。又それは單なる接觸でもなければ、ましてや衝突ではない。これらは、それ自身としては共同に對して無頓着であるか乃至はむしろ破壞的である。之に反して共同は合一和合としてのみ成立つ。
 かくの如き共同は人間の現實的生の缺くべからざる基本的制約をなしてゐる。吾々が人倫的關係と呼ぶものは、皆かくの如き即ち愛の共同であるか、乃至はその共同の基礎の上にのみ成立ち得る關係である。人と人との間の一致和合がなくては、吾々は一刻も生存することが出來ぬ。現實的生の構造が複雜なるに應じて、共同の形態も多種多樣であるが、結局一切は愛の關係に歸着する。このことは事實の示す所でもあるが、又特に生の本質の原理的討究によつて明かにされるであらう。
 主體の主體性は、動作の中心であること、即ち自己の存在を維持貫徹し増進擴張すること、簡單にいへば自己主張、に存する。すなはちそれは自己の存在への存在に存するといふべきであらう。しかるにこのことは主體がそれに向つて自己を主張する對手の存在を包含する。すなはち主體性は他者への生、他者への存在である。このことは日常の體驗の極めて明白に教へる所である。吾々は根源的に人に對してあるが、又場合によつては物に對してもある、いづれにせよ何ものかに對してある。進まうとすれば何ものかへ進み、伸びようとすればどこかへ伸びる。吾々はこの現實の事態より抽象して單純にひたすらに外へと伸びる力だけを表象することは出來る。しかしながら、かくの如き力がそれ自體に實在すると、言ひ換へれば、かくの如くただ徒らに當てもなくいはば眞空へと伸び擴がる力に主體の本質が存すると、考へるならば、それは空想を現實として押賣りしようとするにも等しいであらう。今對手なき、他者との交渉を離れたる絶對的主體といふ觀念が、それ自身矛盾なしに成立ち得ると假定すれば、それはそれを客觀的事態として眞理として表象し承認し主張する主體の存在を俟つて、すなはち客體的他者としての存在を保つことによつて、はじめて可能であるといふことを、吾々は特に銘記すべきである。主體性從つて實在性の兩面性――即ち一方自己主張であるものが他方他者との關係交渉であること、他者への生としてのみ自己の存在への存在が成立つこと――ここに生の最も根本的なる問題が宿つてゐる。時間性と永遠性との問題もここに胚胎する。
 吾々は今、すでに論述した所に基づいて、愛及び共同の觀點よりして、生の諸段階の特質に關し考察を進めよう。一切の根源に位し生のあらゆる形態を支へる基礎的層は自然的生である。それは主體と實在的他者との直接的交渉において成立つ。他者との交渉があり從つて接觸がある限り、相共にする何ものかがなければならぬ。現に主體は他者を離れて單獨に孤立しては存立し得ぬのである。ここに共同に類する或る關係が存在するはいふまでもない。自然的生がすべての生の基礎をなすことを思へば、この關係はすべての共同の基礎をなすといひ得るであらう。しかるに他方より觀れば、この關係こそむしろすべての共同の破壞の口火なのである。直接性において他者と交はる主體、他者に對してただまつしぐらに自己を主張する主體にとつては、他者は障碍と反抗とを意味する外はない。從つて自己主張の成就は他者の滅亡を意味せねばならぬであらう。逆にまた、他者が飽くまでも他者として存立する以上――この存立は主體そのものの存立の必要條件である――他者との交はりは主體にとつては壓迫侵害であり、自己の存在の亡失であるであらう。そこまで徹底を求めぬとしても、自然的生における他者との直接的交渉は、純粹に外面的なる單純に對他的なる關係である。吾々は根源的空間性をここに見出した(一)。この空間性こそ一切の互に相容れぬ自と他との關係の典型であり根源である。主體と他者との共同即ち和合合一はここに見出すべくもない。それどころか、むしろ共同の破棄絶滅こそ徹底したる自然的生の落着く先である。主體性の兩面性はここでは極めて露骨なる自己矛盾として暴露してゐる。更に又時間性及びそれの缺陷や矛盾もここに源を發する。將來(他者)との關係によつて存在を保つ現在(主體)は同じ關係によつて又過去へ非存在へと押遣られる。有はいつも無に歸し、來るものはいつも去り、一切は時の流れに誘はれて果てしなき壞滅の道をたどる。時間性の克服は自然的生のこの自己矛盾よりの解放でなければならぬ。
 この解放こそ文化的生の志す所である。すでに論じた如く、主體が實在する他者との直接的交渉より離脱しその交渉の齎す自滅の危險より解放されて、自由の天地に飽くまでも自己主張を續けようとする所に、文化的生の本質は存する。今や主體は對手との間に何ものかを置くことによつて直接の衝突を避け、かくして共存共在を成就しようとする。客體こそかかる中間的媒介的存在者である。さて共同の成立に際し媒介の役を務めるものは、共同の形相乃至段階が異なるにつれて、多種多樣である。アリストテレス(二)はかかる媒介者を「ト・ピレートン」(〔to phile_ton〕 愛せらるべきもの)と呼び、「善」と「快」と「有益」との三つを擧げた。しかしながら、單にかくの如き普遍的なる價値觀念に限らず、特殊の固定したる人倫關係乃至はかかる關係における特殊の資格、次に又流動的なる諸關係例へば「隣りの人」乃至はその反對として「遠き人」(遠き後の世の人)など(三)、更に諸種の思想・法則・理想など、皆ピレートンであり得る。これらは共同の成立乃至維持に對し制約や理由を提供し、かくて又各種の共同の姿と内容の特質とを規定する。特に強調せらるべきは、これらの條件や規定を媒介としてはじめて共同が成立つこと、從つて共同における直接の對手はそれらであつて、それらによつて媒介される實在的他者ではないことである。今愛を主體の態度の側より觀れば、それは他者無くしては自ら有るを欲せぬこと、他者によつて規定されるものとして自己を規定し自己の存在を主張することと呼び得るであらうが、その場合の他者はいつも直接には媒介者そのものである。直接性を擲つことによつて、しかし同時に新たなる直接的交渉に入ることによつて、はじめて共同と愛とは可能となる。今かくして成立つ共同をプラトンに從つて術語的に「エロース」(〔ero_s〕)と呼ぶならば、エロースこそ文化的生の段階において、尤もそこにおいてはじめて、成立つ愛である。
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(一) 一五節參看。
(二) Ethica Nicomachea. VIII, 1155 b.
(三) ニーチェはキリスト教神學の 〔Na:chstenliebe〕 に反抗して”Fernstenliebe“(將來に生きる創造的愛)を説いた。〔Also sprach Zarathustra. I Teil: ”Von der Na:chstenliebe.〕“
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        三三

 共同と和合とはいふまでもなく全く相離れたるもの全く孤立してものの間には成立ち得ない。主體は關係交渉によつて他者と結び附けられねばならぬ。しかもこのことは直接的接觸を必要とする。間接性は直接性の基礎の上にのみ成立ち得る事柄である。自然的生の特徴は一切が直接的である點に存する。そのことの歸結として實在者は實在者と衝突し、かくて相携へて壞滅の道を進まねばならぬ。文化的生の任務は媒介者を中間に置くことによつて、言ひ換へれば、新たなる他者と直接的交渉に入ることによつて、衝突の危險を克服して和合一致を成就するに存する。かくあるとすれば、吾々は更に進んでこの他者が又それとの交渉が、どのやうなものであるかを究めねばならぬ。論じ來つた所によつて極めて明かである如く、かかる媒介者は客體としての他者以外にはあり得ない。しかるに客體の存在の仕方は觀念的のそれである。かかるものとして他者は、主體にとつては、それにおいてそれを通じて自己を主張する所のもの、即ち主體の自己實現の契機に外ならぬ。客體的他者は本質上主體の勢力範圍に屬し、主體と特に親密なる間柄に立つ。すなはちそれの本質的意義は可能的自己であるに存する。主體(自我)は客體を己のうちに取入れ、己のものと否己れ自らとなすことによつて、主體性を貫徹する。他者性が自己性のうちに吸收されることによつて、主體と他者との衝突も爭鬪も取除かれ、和合と共同とは可能にされる。エロースとしての愛はかやうにして自己性の擴張によつて成立つのである。それはいかなる對手においてもいつも自己を見出す。他者はいつも第二の自己である(一)。愛において主體は、わが生わが自己が近きもの狹きもの小なるものより出で、いかに遠きもの廣きもの大なるものをも恐れずに伸び行き擴がり行き、つひには全き世界一切の存在をも支配の鵬翼の下に收めるに至るを知るであらう。かくて根源的空間性即ち自と他とを隔てる外面性は全く克服されるやうに見える。しからば時間性はどうであらうか。もはや繰返へすを要せぬ如く、文化的生の主體即ち自我はいつも現在において生きる。それの時間的性格は現在である。ここでは現在は過去をも將來をも單なる内容として部分としてわがうちに包括する。それ故エロースにとつても嚴密には現在があるのみである。愛せられるものの過去も將來も今現に有るもののやうに愛する我の關心を呼ぶ。いかに遠き昔もいかに遙かなる後の世も愛の感激を斥けぬ。愛の幸福は來つて加はるであらう何ものをも又缺けて去り行くであらう何ものをも知らぬ。愛はいつも一切を所有する。愛の歡喜に充たされるならば一瞬時も全き永遠そのものである。
 しかしながらこれが砂上の樓閣に過ぎぬことは、文化的時間性について論じた所によつてすでに明かであらう。一切を支へる全能の現在は實は絶え間なく滅び行く現在なのである。文化的生が自然的生の土臺の上に立つ以上、愛も後者の性格によつて制約されるを免れぬ。自然的生において發見されたる主體性の二重性格は、形を變へて文化的生にも入込み、生の根本の蟲食み自己矛盾に倒れしめる。愛も主體の自己實現として活動の性格を擔はねばならぬ(二)。しかるに活動は自己性と他者性との兩契機の必然的竝立と從つて兩者間の必然的緊張とに基づく。客體にとつては、主體に對して他者であることが本質的であるが、又自己實現自己表現の意味と任務とを有するものとして、主體の自己性に屬することが同樣に本質的である。一方のみの徹底はいづれも生の破壞にをはらねばならぬであらう。他者性のみ徹底すれば、生は自然的直接性に逆轉する外はない。共同は全く影をひそめねばならぬであらう。之に反して自己性のみ徹底すれば、自己を實現し盡した主體は生の中心を失ひ、生の源の枯れ果てることによつて、他の觀點より言ひ換へれば、他者を餘す所なく併呑しもはや働きかけるべき何ものをも對手として有せぬことによつて、自ら自滅の墓穴を掘るであらう。自己性と他者性との間の不一致は活動としての生を可能ならしめるが
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