れの前提に遡り、それを可能ならしめるであらう事態又は事實を推理によつて想定することである。觀想の主體が客體を近きもの親しきもの乃至合一するものとして體驗することは、兩者が別々の存在を保ちながらも本來それの存在において即ち本質に於いて、乃至場合によつては實在性において、同一であることの證據でなければならぬ。本來同一なるもののみ合一し得る。主體が超時間的なる客體を認識し乃至それと合一し得るのは、それ自らすでに超時間的であるがためである。云々。さてこの思想が文化的生の立場を終極的のものと看做すより發生したものであることは甚だ明かに看取される。その立場においては嚴密の意味においては現在のみある如く又有のみ存在のみある。現に有るものは有るものより同じものは同じものより來らねばならぬ。それ故ここでは嚴密の意味における死があり得ぬ如く、又嚴密の意味においての無もあり得ず、從つて無より有の生ずること即ち創造もあり得ぬのである。宗教の領域においては神祕主義はこの傾向を明瞭に典型的に現はしてゐる。哲學乃至形而上學の領域においては、通常汎神論と呼ばれる世界觀がこの思想の上に立つことは言ふまでもないが、この思想の勢力は更に汎ねく到る處に及んでゐる。吾々は今當面の問題に關しても等しくこの根本思想の發露を見るのである。
 認識は似たもの乃至同一なるものの共同乃至合一であるといふ思想が、文化主義觀念主義の世界史的代表者であるギリシア人の間において廣く行渡つてゐるは當然といふべきであらう。明白なる例外はアナクサゴラスただ一人といつても言ひ過ぎではない。「地をもつて地を見水をもつて水を見る」云々とエムペドクレスは、甚だ素朴なる形においてではあるが、すでに明瞭にこの思想を言ひ表はした(四)。アリストテレスに從へば(五)、認識は主體と客體との合一によつて行はれる。現實的となつた認識は對象と同一である。認識せられるもの從つて――一切は認識せられるものである故――一切のものに成るといふのが理性の本質である。しかしながらそのことは、認識の未だ行はれぬ前すでにそれと對象との同一性が、(人間の認識能力の場合には)可能的に乃至(その可能性を實現させる動力としての所謂能動的理性においては)現實的に、存在するを前提する。云々。「太陽の如くなつた眼のみ太陽を見、美しくなつた魂のみ美を見る」といふプロティノスの句(六)は同じ思想を言葉美しく表現したものに外ならぬ。なほ彼に從へば、永遠的神的なるものを觀ることによつて自らも永遠的神的となる魂ひは、實は忘れたる故郷に歸り行くのである。スピノーザに從へば、客體と主體との一致乃至合一を意味する認識は、實體(substantia)の同一性一元性によつて根據づけられる。人間の永遠性は神への直觀知及びそれの直接的必然的歸結である神への知的愛より來り、かれ自ら神の永遠的樣態(aeternus modus)であることに基づく。從つて人の神に對する愛、永遠的愛、は神が自己を愛する愛と同一である。云々。
 さてこの思想、文化主義の魂ひの泉より迸り出たこの思想を文化的生の基本的性格をなす自己實現と結び附けて眺める時、吾々は次の如き事態が直ちに眼前に現はれ來るを見るであらう。主體の自己表現のある處には必ず現在があり存在があり同一性がある。これらは皆等しく自己性に基づく。しかるに自己性は自己實現の活動によつてはじめて現實的となる。主體がはじめより即ち現實的にのみ超時間的であるならば、勿論問題は存せぬであらうが、かかる主體は實は純粹客體となつた主體、主體のイデア、主體性に過ぎず、それの無時間性超時間性はむしろ自明の事柄であるが、そのことの代償として、それは現實的に主體であるを止めたものである。アリストテレスやプロティノスの nous ヘーゲルの Geist(精神)の如き實は皆これである。それらは超時間的なる自己觀想――アリストテレスの用語に從へば、〔noe_sis noe_seo_s〕――として存在し、客體としても主體としても超時間的ではあるが、すでに述べた如く、かくの如き單に觀られるだけの超時間性無時間性は時間性に喘ぐ現實の主體にとつては單に畫かれたる餅に過ぎぬであらう。主體が客體と根柢においては同一乃至同種類であり從つて等しく超時間的であるとすれば、かくの如き自己かくの如き本質は實現されて現實的形相とならねばならぬ。しかるにそのことは主體の活動を從つて時間性を意味するのである。それ故強ひて永遠性や不死性を求めるならば、無終極的時間性のそれ以外にはないであらう。プラトンの靈魂不死性の一論證は、この事態を明瞭に反映してゐる點において、吾々の注目を呼ぶ(七)。彼は純眞なる觀念主義の立場に立つて二種類の存在を説く。一は肉眼に見えぬもの、あらゆる地上の汚れを拭ひ落して清淨なるもの、單純なる姿のもの、いつも自己と同一なるもの、永遠的・不死的・神的なるもの、しかして他はすべて反對の性格を擔ふものである。靈魂は第二の即ち地上の存在者に屬する。しかしながら、永遠的存在者と同じ族に屬するものとして、それは天上高く、死せぬもの變らぬもののもとに昇り、いつまでもそこに留まり、それと交はることによつてこの世の流浪を免れつつ、自らもいつも同一なる存在を保つ。云々。吾々はここに純眞なる觀念主義者の典型的體驗の告白を聽いて、深き感激に打たれる思ひする。しかるにプラトンが靈魂の不死性と考へたものは、かくの如くいかなる刹那にも、勿論生の眞中において、達せられ得る魂ひの向上永遠者との合一ではなく、却つて死後實現せらるべき無終極的存在であつた。上に述べた思想はかれがこの意味における不死性を證明すべき一論據として展開したものに過ぎないのである。しからば永遠的生が地上において獲得されぬ理由はいづこに存するか。靈魂が身體と共同生活を營み、從つて純粹の觀想に生き難いによるのである。すなはち、純粹の觀想乃至永遠者との完全なる合一が、既定の事實としてはじめより現實的であらぬ限り、練習(〔melete_〕)が必要となる、しかもこの練習は死後はじめて實を結ぶのである(八)。さて、練習はいふまでもなく時間的活動としてのみ成立つのではなからうか。それの目的が死後に達せられるといふは、純眞なる觀念主義の立場よりみれば、達せられぬと告白すると何の擇ぶ所があるであらうか。自らの力を恃みて、或は高次的實在者・永遠者をわがものとなすことにより、或は自らすでに神的であり超時間的であることにより、この世よりの解脱や救ひを計る人間的主體は、絶望の一語をもつて報いられる外はないであらう。
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(一) キリスト教經典においてはコリント後書三ノ一八がこの思想を示してゐる。なほ次の諸書參看。Bousset: Kyrios Christos1[#「1」は上付き小文字]. S. 197 ff.(”Vergottung durch Gottesschau“ といふ見出しの處)。――Reitzenstein: Die hellenistischen Mysterienre Iigionen3[#「3」は上付き小文字]. S. 357 f. ―― J. Weiss: Urchristentum. S. 406.
(二) Theaitetos 176 b においては哲學の效果として「神に類似すること」が擧げられてゐる。「パイドン」の靈魂不死性の思想については後の論述參看。―― Plotinos. IV, 7, 10; III, 7, 5. ――スピノーザの scientia intuitiva 及び amor dei intellectualis の説。――〔Fichte: Anweisung zum seligen Leben. V, 487 f.; Grundzu:ge des gegenwa:rtigen Zeitalters. VII, 235 f.〕(ここでは特に明瞭に言ひ表はされてゐる)。――ヘーゲルにおいては、主體は永遠の世界に入りそこの住民とはなるが、それは主體性の觀念として即ち純粹客體としてである。かれの觀念主義は甚だ徹底したものである。
(三) 〔Reden u:ber die Religion1[#「1」は上付き小文字]. S. 133.〕 かくの如き主體の永遠性は Anschauen des Universums によつて實現されるのである。
(四) Fr. 109.
(五) 「宗教哲學」二六節參看。可能性は結局現實性に基づくといふアリストテレスの思想は、本文に論じた文化主義の根本思想より來るのである。所謂 〔nous poie_tikos〕 の説も一部分はこの方面より理解さるべきであらう。「成る」といふことの前には必ず「有る」が立つてゐるのである。
(六) I, 6, 9. ゲーテの有名な句の源はここにある。
(七) Phaidon 79 d.
(八) 純粹客體の體驗の記述が極めて鮮明であるに反し、それを根據としての靈魂不死性の論證は甚だ不鮮明、殆ど混亂状態を示してゐる。死が靈魂と身體との分離であるならば、死といふ單なる事實そのものはすでに解脱を意味せねばならぬであらう。しかるに哲學は死の練習として説かれてゐる。ここにいふ死は單なる事實としての死ではなく、哲學的練習をなすもののみに與へられる解脱を意味し、それを死と呼ぶは比喩的表現に過ぎぬものとなるであらう。すなはち哲學的練習に身を委ねるもののみ死後その練習の成果を收め得るのである。さて、カントやその他の近世の思想家たちの考へたやうに、この練習は死後も繼續されるのであらうか。靈魂不死性の思想はこの歸結を要求するであらうが、プラトンは、オルフィク教の影響の下にかれが説いた終末論の示す如く、一定の期間にこの練習を限局した。しかしながら更に一層根本的なる矛盾は練習を必要としたそのことに見られる。靈魂がそれ自らとしてすでに超時間的であるならば、何故に練習を要するのであらうか。尤もプラトン自身もこの論證には理論的滿足を感じなかつた。かれは結局これを抛棄して次の(即ち最後の)論證へと移つて行つた。要するに、彼にとつては魂ひの眞の永遠性は、いついづこにおいても實現され得る乃至されねばならぬ永遠者の觀想においてのみ成立つのであるが、神祕主義者の如くかりそめの氣分や感激に絶對的信頼を置く能はず、主體の現實的生が活動であり自己實現であることを明かに覺るだけの着實さを持つてゐた彼は、つひに收拾し難き混亂に陷つたのである。
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    第七章 永遠性と愛

      一 エロースとアガペー

        三一

 時間性の上に出でそれに打勝たうとする傾向は文化的生においてもすでに存在した。否、時間性の克服は文化的生の本質に具はる最も固有の傾向であるとさへいひ得るであらう。さて吾々人間にとつて「ある」は「生きる」であり、生きるは自己主張である。しかも他方においてこの生は他者への生であり、他者との交はりにおいてのみ成立する。人間的存在の全體を支へる根源的生においては主體の對手として向うに立つ他者は實在的他者であり、それとの間柄は直接性である。この自然的生の本質的性格をなすのが時間性である。從つて時間性の克服は生のこの自然性の克服でなければならぬ。問題は、交はりにおいてある他者とそれとの間柄と、これら相聯關する二つの事柄の性格如何に關はる。これら二つと聯關して主體そのものの性格も亦定まる。文化的生は、主體の自己主張並びにそれの直接性はそのままに留保し、ただ他者の性格を變更することによつて向上と自由とを、又從つて時間性よりの離脱を企圖した。この向上の道を絶頂まで登り詰めた哲學においては、無時間的性格を許され得る他者、純粹形相・純粹客體、との交はりさへ實現されて、離脱の努力は成功をもつて報いられたかのやうにさへ思はれた。しかしながら一切の努力は結局失敗にをはらねばならなかつた。文化的生においては、他者は、可能的自己としてそれ自らの
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