異と部分とを包括し支配し吸收しようとする。哲學はこの傾向の貫徹を計るもの乃至貫徹そのものを以つて自ら任ずるものに外ならぬ。萬能を誇り純粹客體以外何ものの存在をも認めぬといふやうな狂氣じみた幻覺に耽らぬ以上――かくの如き幻覺が若し事實として存在したならばそれは文字通りの狂氣であらうが――哲學はそれの志向を充たすために客體の世界において存在の區分と選擇とを行はねばならぬ。プラトンの二種類の存在(〔duo eide_ to_n onto_n〕)の説はこのことの最も獨創的典型的なる又影響最も大いなる實例である。しかしてそのことは、自然的生より文化的生に昇る際に行はれた反省の働きを更に徹底させ、第二段の高次的反省によつて自己性形相性を意味する内容を切離して遊離せしめ、獨立的優越的なるものとして固定することによつて行はれる。それ故文化的生の全體といふ觀點よりみれば、哲學は主體の自己實現の一契機を一時的に特に抽き出し、それのみに注意を集中し他を忘れるものに外ならぬ。抽き出される自己性の契機は生に形相を與へそれの性格を決定するもの、即ちそれの有り方の眞の姿、それの眞の存在、それの本質――プラトンが 〔onto_s on〕 又は ousia と呼んだもの――である故、それの觀想と理解とに力を集中することによつて、生の自己理解は高められ深められるのである(三)。然しながらそのことは畢竟一定の目的を成遂げる有效適切なる手段として、不用なるもの妨碍となるであらうものを一應片附けること目前より遠ざけること差當り忘却することであるを、吾々は忘れてはならぬ。純粹の形相の世界本質の世界に入らうとするものは、活動性と時間性とを示唆し意味するであらうあらゆる規定を戸口に置き棄て置き忘れねばならぬ。すべての學問が或る程度しかある如く、哲學は特に勝れたる徹底的なる意義におけるかくの如き忘却術である。それはおのが任務に忠實なるためには、わが家としての時及び時間性を忘れわが行くへの死をも眼より遠ざけねばならぬ。しかしながら忘れること見ぬことは決して無くなすことでも打勝つことでもない。主體の時間性は儼として存續し依然その暴威を揮ふ。「我を忘れて」永遠の眞理の觀想に沈潛した自我が再び「我に歸つた」時、はたして時の流れに押流されて溺死を強ひられる自己を見出さずにゐられるであらうか。
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(一) 以下の論述に關しては本書八節、九節、一〇節參看。
(二) Boethius: De Trinitate. 4. 「止まる今」は中世以來 nunc stans といふ形において哲學的超時間性の稱呼として行はれた。
(三) Lotze: Logik. Drittes Buch, 2 tes Kapitel. (Phil. Bibl. S. 510 ff) 參看。ロッツェはイデアの有り方を嚴密の意味の存在即ち Sein 乃至 Wirklichkeit より區別して Gelten(妥當)と名づけ、兩者を混同したとしてプラトンを非難した。プラトンのイデア説が形而上學へと發展したことに對する抗議として、從つて哲學――觀念主義理想主義の哲學――の最も純眞なる最も本來的なる動機と性格とに忠實であらうとする努力としては、この解釋はたしかに正しい。Windelband は價値哲學の立場よりしてこの Sein と Gelten との區別を思索の中心に持ち來つた。永遠性の觀念に關するかれの解釋(〔Pra:ludien: ”Sub specie aeternitatis“〕)は形而上學への進展の道を取らぬ點において、又主體の時間性を率直に承認してゐる點において、典型的意義を有する卓越した業績である。
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二九
時間性を限界より遠ざけようとする努力は歡喜と慰安とをもつて報いられるであらうが、結局一時凌ぎかりそめの氣安めに過ぎぬ。客體が自己實現の質料的契機として主體のうちに取入れられ處理に委ねられるべきである限り、時間性の克服は望み得べきでない。取るべき途は客體の獨立性從つて他者性を強化するより外にない。すでに論じた如く(一)、客觀的實在世界もこの途を取つた。そこでは客體は實在的他者・自然的實在者に歸屬せしめられた。しかしながら純粹客體の場合にはこの途ははじめより塞がれてゐる。自然的實在性を二段の反省によつて超越した純粹なる高次的客體には、そこへの復歸ははじめより拒まれてゐる。それ故哲學は觀念的存在者そのものに實在性を付與しそれを直接に高次的實在者の位に据ゑる外はない。これ即ち形而上學である(二)。形而上學には大體において二種の類型の存することはすでに論じた通りである。内在的形而上學は客觀的認識をさらにそれの原理へと、客觀的實在世界をさらにそれの根源の高次的實在者へと、還元しようとする。しかるにそのことは超越なしには不可能であり、超越は高次的客體によつてなされねばならぬ故、結局は内在的形而上學も超越的形而上學によつてのみ形而上學の資格を得るのである。それ故觀念主義の形而上學以外に形而上學は無いといつても過言ではないであらう。さて觀念的存在者は、純粹の本質においては、殘る隈なく顯はなるものとして、何ものかがその中に入り來るを拒む隱れたる中心、實在者としての中心、を全く缺く故、それを直接に實在者の位に据ゑることは本來禁じられてゐる事柄である。しかもプラトン以來數多くの大思想家たちがこの許されぬ道に踏入つた事實は、實在者との交はりによつてのみ生は成立つこと、從つて實在者への希求は人間性の最深最奧の本質に根ざすことを教へる。究極まで押詰めれば、高次的實在者において滿足を見ようとするはもと宗教的要求である(三)。このことの立入つた論述はここでは割愛せねばならぬが、その要求が觀念主義の形而上學的宗教によつてではなく人格主義の愛の宗教によつてのみ充たされる如くに、永遠性への憧憬もここではつひに滿足を見ずにをはらねばならぬであらう。
すでに有神論の世界觀に關して述べた如く(四)、高次的實在者が本來觀想の對象である以上、それの超時間性が果して又いかにして人間的主體の時間性の克服に役立ち得るか、は甚しく疑問である。高次的實在者が時間的制限より解放されてゐると認識することは、しか認識するものがその制限に服從してゐることと、何の矛盾をも來さぬではなからうか。しからば今高次的實在者が、時間性の世界と關係交渉に入ることによつて、人間的主體を上の世界に引上げる、といふやうな事柄を想像して見てはどうであらうか。觀念主義の形而上學にとつて何事にもまさる難事は、永遠的なるものと時間的なるものとの間に聯關を設けることである。プラトンをはじめとしてスピノーザやヘーゲルなどに至るまで、すべて二種類の存在の思想に忠實であつた思想家たちは、等しくこの問題に躓いた(五)。彼等は解決を試みなかつたのではない。しかしながら單に聯關を説くこととそれを理解し得る事柄にすることとは決して同一でないのである。それどころか、假りに解決が成功して聯關が眞理として認識されつつ設定を見たとすればどうであらうか。そのことによつて聯關そのものも聯關の一端に立つ時間性もともに時間的存在を置き棄て、無時間的超時間的客體として永遠の世界に新しき住居を見出すであらうが、それにも拘らず、時間的存在を保つものは依然として同じ存在を繼續せねばならぬであらう。時間性の觀念が超時間的であることは時間的存在者が依然時間的であることに何の影響をも及ぼさぬであらう。高次的實在者は、客體的觀念的存在者がそのままの姿で實在者の位に高められたるものとして、本來主體性を缺く。それには時間的存在者に働きかける活動性が缺けてゐる。力・活動・發展・原因・主體・客體等のイデー・形相・範疇が、靜かなる永遠の世界に仰ぎ見らるべき高貴なる光り輝く存在を保つてゐるとしても、吾々が現にそれの中に生きてゐる可滅的時間的世界は、それより何の御蔭を蒙ることもないであらう。若し高次的實在者が――通俗的にいへば、神が――直接に客觀的實在世界において高次的絶對的主體として活動するといふことならば、吾々はすでに論評した内在的形而上學的世界觀としての所謂有神論に立戻らねばならぬであらう。しからば、時間的世界の眞中に活動する實在者がいかにして時間性より自由であり超時間的性格を保ち得るか、といふ反對の方向よりの難詰は直ちに襲ひ來るであらう。
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(一) 一〇節、一四節以下參看。
(二) 一〇節、二六節參看。
(三) 「宗教哲學」一五節以下參看。
(四) 二六節參看。
(五) 拙著「スピノザ研究」參看。――ヘーゲルの辯證法はこの問題に答へようとするものであるが、かれの説いたすべての聯關すべての發展は觀念世界の事件に過ぎぬ。「すべて合理的なるものは現實的であり、すべて現實的なるものは合理的である」といふかれの言において「現實的」或は「實在的」はプラトンの 〔onto_s on〕 に外ならぬ。
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三〇
尤も超時間的實在者――神――を觀ることによつて、觀想乃至直觀によるそれとの結合共同合一などによつて、人間的主體自らが超時間的永遠的神的と成るといふ思想は、古今の宗教及び哲學を通じて甚だ廣く行はれてゐる。純粹なる嚴密の意味における神祕主義はこの傾向の徹底したるものに外ならぬが、そこまで、即ち神と人との完全なる合一といふ點まで進まず、神祕主義的傾向乃至性格を有する程度に止まる諸思想においても、永遠性の問題に注意が向けられるとともに、單に客體ばかりでなく人間的主體の永遠性が説かれるが常である。宗教史上最も色どり豐かなる最も生氣に富む殆どクラシック的と稱すべき時代を形作つた、ヘレニスティク時代に廣く行はれた一思想は、「神を見ることによつて神と成る」といふのであつた(一)。哲學者のうちでは吾々はプラトン、スピノーザ、フィヒテ等を擧げることが出來よう(二)。「有限性の眞中において無限者と一になり、一瞬時において永遠的である――宗教の不死性はこれ」といふ、人口に膾炙するシュライエルマッヘルの言は、同じ思想を簡潔に印象深く言ひ表はしたものに過ぎぬ(三)。
この思想はいづこより來たであらうか。言ふまでもなく觀想の本質より來たのである。觀想において主體の對手は觀念的存在者としての客體である。活動としての性格は蔽ひ隱され、主體は顯はとなつた自己の透き徹つた形相の前に立つ。客體は固有の實在的中心を缺く奧行きも底もなき平面的存在者として、主體と、あらゆる隔りや暗さの克服されたる完全なる合一に入ることによつて、それ本來の使命を完うする。しかしてかくの如き客體の本質的性格をなすのが無時間性である。これは客觀的時間の無終極性に基づく不死性や(僞りの)永遠性の如く推理や信念の事柄ではなく、直接に現に今客體の性格として體驗される事柄である。そればかりか、無終極性が未完成從つて不滿足の連續を意味したのに反して、ここでは主體は、過去も將來もなき純粹なる現在に安住しつつ完成されたる生の歡喜に浸ることが出來る。しかもその生は客體との合一としてのみ完成を告げる。無時間的存在者の觀想において主體が自己の超時間性をも體驗し得るやうな氣持ちを味ひ得るのは謂はれある事である。しかしながらそれは結局氣持氣分に過ぎぬ。眞實に體驗するは單に客體の無時間性のみである。高次的實在者が眞に實在者であるならば、主體のそれとの直接的合一はもとより不可能の事である。主體は自己の中心を守り超時間的存在者も他者の侵入を拒む以上、兩者が、この場合特に主體が、外面的接觸以上に進むことははじめより禁ぜられてゐる。それ故超時間的存在者が合一を許すとすれば、そのことはそれが觀念的存在者としての資格においてのみなし得る事である。かくて問題は後戻りする。觀念的存在者が主體の超時間性を惹起しも保證もなし得ぬことは、もはや繰返すを要せぬであらう。
しかしながら殘つた道がなほ一筋ある。それは體驗より更にそ
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