フ存在何等かの内容の構造・秩序又は形相としてのみ現實には存在する故、歴史的傳統の示す上記の如き態度もあながち理由なきことではない。ただ吾々は時そのものの本質それの實相を、根源的體驗にまで遡つて究めることを忘れてはならぬ。かくすることによつて吾々は時そのものの本質とは沒交渉なる他方面の學説や思想によつて理解を晦まされ妨げられるを免かれるであらう。多くの人々の如く、客觀的時間そのものを殆ど問題とするに及ばぬ自明の事柄であるかのやうに前提し、ただそれの始めや終りの有り無しについて論ずるは、全く方法を誤つたものといはねばならぬ。言ひ換へれば、吾々は主體及びそれの根源的の生き方と聯關させつつ、先づ時を生き方として時間性として理解し、更に時及び時間性において根源的なるものを究めることによつて、それの諸層諸段階を區別しつつ明かにするを力めねばならぬ。アウグスティヌスとベルグソンとは、すでに前に述べた如く、この正しき方向へ吾々を導いた尊敬すべき先達である。尤も道そのものはもとより吾々自ら開き歩み進まねばならぬ。
 吾々自らの答はさきに客觀的時間性について論じた所によつてすでに與へられてゐる。吾々は無終極性を客觀的實在世界の時間的性格となすものである。尤もこれは、カントが恐れたやうに、無際限に延長する時に絶對性を許すのではない。生が更に新たなる乃至一層高き段階に進み得るならば、即ち立入つていへば、永遠性が生の眞中に現はれるならば、時間性從つて時の無終極性はそのことによつて制限と克服とを見るであらう。ただ自然的生を基體としその上に築かれる文化的人間的生の續く限り及ぶ限り、時の無終極性は效力を有するのである。
 さて、無終極性が時間性の克服ではなく、むしろ根源的時間性の本質的性格をなす可滅性斷片性等の延長に外ならぬことは、すでに力説した所である。不死性の觀念の基礎をなすものが、吾々が「惡しき永遠性」乃至「僞りの永遠性」と呼んだこの無終極性である以上、その觀念が基礎を失つて崩壞を免れぬは見易き歸結である。それ故無終極性としての不死性は時間性の克服ではなく從つて死の克服でもない。それは自己の源と基ゐとを忘れた文化的主體の陷り勝ちな幻覺に過ぎないのである。根源的時間性の克服されぬ限り死の克服も亦不可能である。然らばその幻覺はいづこより來るか。死の理解を誤るより來る。死が時間性の徹底化として壞滅であり無への沒入であるを解せぬより來る。言ひ換へれば、死を客觀的實在世界の事件として客觀的にのみ觀るより來る。時が客觀的時間性に等しいならば、すでに述べた如く、そこでは存在と存在との、現在と現在との、連續があるのみ。死は一つの存在より他の存在への移動を意味する外はない。更に立入つて何であるかに關はりなく、それは本質上存在の變形に過ぎぬであらう。それ故死に出會ふであらう主體は死そのものよりは存在の壞滅を恐れるを要せぬであらう。若しこれを恐れる必要があるとすれば、それは他の事情他の理由に由らねばならぬであらう。それ故、永遠性と不死性とを求め又は信ずるものにとつては、かくの如き事情や理由の存在せぬこと、乃至は積極的に、生を無終極的に繼續せしめる事情や理由の存在すること、が切なる關心の事柄となるであらう。
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(一) Physica, 251 b.
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        二四

 ここよりして吾々はプラトン以來の古き長き歴史を有する所謂靈魂不死性の論證の意義を理解する新しき手蔓を得るであらう。それらの論證は、純理論的觀點よりみれば、極めて薄弱なる論據及び推理の上に立つてゐるであらうが、背後にあつてそれを支持しそれに生命を與へる思想や信念は、生の源より發したものであり且つそれぞれ典型的意義を有する。それらのうち最も有力なる又最も代表的なる二つを吾々は今試みに「存在論的」(或は本體論的 ontologisch)及び「目的論的」(teleologisch)と名づけよう。存在論的論證は、靈魂正しくいへば主體そのものの眞の存在・本質的性格より出發し、それと他者との關係交渉を原則としては考慮に入れぬものである。これと異なつて目的論的論證は世界のうちにあり又生きる主體、即ち他者との關係交渉において立つ主體を考察の對象とする。
 古代はプラトン及びプロティノスより、中世はトマス・アクィナス、近世はライプニッツやメンデルスゾーンに及んで、最も廣く行はれた姿においては、存在論的論證は主體の單純性を論據とする。物體が空間的存在を保つものとして複合的であり互に外面的に境を接する存在者より成立つのに反して、靈魂は單純であり從つてむしろ複合的なるものに統一を與へるものである故、組成する要素に分解されず從つて壞滅することがない、といふのがそれの論旨である。今局部及び全體の理論的價値を眼中に置かずただ遡つてこの思想の根源を尋ねてみれば、それは客體に對する主體の單純性即ち自己性に求むべきである。主體の自己性はすべての客體的存在者に意味と聯關とを與へるものとしてそれ自らは單純であり、之に反して客體は他者の位置に立ち他者性從つて差異性・數多性を含むものとして複合的である。今假りに、客體の意味聯關に斷絶を命じつつ新たなる内容と從つて新たなる聯關とを與へるであらう他者、更に遡れば、一般的に客體性及び客體的他者性の源である他者、即ち實在的他者との關係交渉を離れて主體を純粹なる自己性において遊離させることが可能であるとするならば、そこには自己性、從つて存在、時間的性格として言ひ換へれば現在、以外の何ものもないであらう。文化的時間性がかくの如き目的地を志すことはすでにしばしば論じた所である。しかるに同じくすでにしばしば論じたやうに、他者性より遊離したる自己性は人間的生のいづこにも成立ち得ないのである。文化的生は他者における、客體及び客體的聯關における自己實現であり、しかもそれは更に自然的生の基礎の上に立つ。然るに自然的生の主體、一切の生を擔ふ最も根源的意義における主體は、實在的他者との關係交渉においてのみ存在する。若し主體がそれ本來の自己主張自己の存在の主張を徹底的に貫徹し得たならば、言ひ換へれば、純粹の自己性において單純性において成立ち得たならば、それの壞滅はあり得ぬことであり、存在論的論證の目指す所志す所は達成されるであらう。しかしながらそのことは全くの空想全くの幻覺に過ぎないであらう。一切の生の源であり基ゐである自然的生は本質的性格として時間性可滅性を示す。文化的生が本來志す所はこの時間性可滅性の克服であり、又そこに或る程度その方向への前進は見られるに相違ないが、目的地の到達は本質的に不可能である。そのことは主體の單純性が不可能であるに基づく。主體が存在の主張を貫徹し得るか否かは畢竟他者との關係が決定する。
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(一) 〔Platon: Phaidon. 78. ―― Plotinos: Enneades. IV, 7. ―― Thomas Aquinas: Contra Gentiles. II, 55. ―― Leibniz: Monadologie. ―― Mendelssohn: Pha:don. Zweites Gespra:ch. (Gesammte Schriften. Jubila:umsausg. III, S. 78 ff.)〕
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        二五

 目的論的論證は存在論的論證と異なつて主體と他者との關係より出發する。その際問題となる主體はもとより同樣に文化的主體であるが、存在論的論證がそれを自己性の純粹なる姿において一切を支配する單純なる力として取扱ひ、他者を考慮に入れる場合にも、それを主體の完成されたる純粹なる表現として從つて他者性を自己性に對してはあるとも無きに等しきものと看做す態度を取つたのと異なつて、この論證は他者を眞面目に考慮に入れる。他者は先づ客體であり、更にそれを實在的他者に歸屬せしめることによつて成立つ客觀的實在世界である。簡單にいへば、主體はここでは世界内存在において考察される。かくの如き觀點よりみられたる主體は他者において自己を實現する働きの中心乃至出發點である。すでに述べた如く活動こそそれの基本的性格である。文化的生をこの性格において把握するを特徴とする近世哲學において、特にこの論證乃至それの原動力をなす信念が顯著なる進出を遂げたのは謂はれあることである。明かにそれと言ひ表はされたる思想乃至論證の形においては吾々はそれを啓蒙時代の思想家達、カント、レッシング、ロッツェ等において見るが、氣分乃至感情としてあこがれ乃至信念としてはそれは文藝復興期以來到る處に躍動してゐる(一)。後の世に語り繼ぐべき朽ちぬ名を立てるといふが如き最も通俗的なる汎人類的なる信念よりして、カントの「理性」フィヒテの「自我」ヘーゲルの「精神」などの諸思想に至るまで、文化的主體の價値と優越性と威力とが感ぜられ認められ信ぜられる處には、目的論的論證は、胚芽としてなりとも、すでに存するといふべきである。
 かかる思想の多種多樣の諸形態を歴史の觀點よりして殊に類型論的に取扱ふは興味深き事柄ではあるが、もとより吾々の任務より遠ざかる。吾々の任務はここではそれらの根柢にあつてそれらをして不死性乃至無終極的存在の觀念への方向を取らしめる基本的思想を、生の根源的性格よりして理解し批判するに存せねばならぬ。さて、目的論的論證は文化的主體の基本的性格である自己實現及び活動より出發し、それの完成、即ち主體の終極目的の實現、のために必要なる制約として生の無終極性を推論する。完成は或は完全性(Vollkommenheit)或は最高善(〔Das ho:chste Gut〕)或は幸福などとして表象される。これらはそれぞれの特異性を有し、例へばカントの道徳の無制約的價値に基づく最高善の思想と、殆ど時を同くして啓蒙時代を風靡した幸福乃至完全性の思想との間には少からぬ隔りは存するが、根本の點においてはそれらはすべて一致する。活動の種類もここでは問題をなさぬ。觀想もここでは活動としての性格においてのみ考慮に入れられる。當爲 Sollen を内容とする活動もここでは主體の自己主張であり、從つて主體の事實上の性格をなす意志作用に外ならぬ。カントの思想はここに興味深き事態を示してゐる。かれが文化的主體――「理性」――の終極目的と考へた「最高善」は、一方道徳律をそれの制約として内に包含する點よりして最高の Sollen でありながら、他方また實踐的理性の全體的對象としてむしろ Wollen に屬せねばならぬ(二)。カントは最高善の基礎をなす自由の觀念については Sollen と Wollen との同一性をそれと言明さへしてゐる(三)。すなはち感性――吾々の用語をもつてすれば、自然的主體――に對しては Sollen であるものも理性――文化的主體――にとつては Wollen であると。要するに種類如何を問はず活動が文化的主體の自己實現といふ性格を擔ふ以上、それは主體そのもの、自己の存在の貫徹へと邁進する根源的生そのものの發現として、自己の完成へと努力するは當然である。しかるにこの努力が成功を見るか否かは、主體そのものにではなく、むしろそれと他者との關係に依屬するのである。他者は可能者として質料として主體の活動及び自己實現を可能ならしめるが、又同時にそれに妨碍を與へる。自然的生においては勿論さうであつたやうに、文化的生においても他者性は消滅することなき必然的契機である。目的論的信念はこの事態をさまざまの形及び程度において考慮に入れつつ、しかも活動の完成主體の終極目的の達成がそれの無終極的存在の制約の下に行はれ得るを主張するものである。この主張ははたして正しいであらうか。
 自然的生においての如く文化的生においても他者性は時の流動の源である。若し他者性が完全に自己性によつて同化され完全に自己實現の從順なる具と化し得たならば、純粹なる現在のみ殘り
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