惜しむべきはその解脱は同時に解脱する筈の主體の壞滅を意味することである。世の惱みは主體の自己主張の抑壓否定に基づくとすれば、死は却つてこの世の惱みの徹底化といふべきである。ここより觀れば、世の惱みこそむしろ死の前兆又は先驅と解すべきであらう。
第二。吾々は時間性の克服である永遠性は同時に死の克服でなければならぬこと、又死の克服は永遠としてのみ成就されることを知る。生の繼續に過ぎぬ不死性の觀念が、永遠性の又從つて死の克服の要求に副はぬことは、すでにここよりしても明かである。永遠性の正しき理解を求むべき方向もすでにここに指し示されてゐる。主體の現在が將來を失ふことが死であるならば、永遠は過去が無く將來のみある現在である。それと聯關して、死は他者よりの完き離脱であるに反し、永遠は他者との生の完全なる共同でなければならぬ。孤獨は死を意味し、永遠は愛としてのみ成立つのである。
[#改ページ]
第五章 不死性と無終極性
二一
時間性そのものの範圍において、すでにそれの或る程度の克服が行はれることは、吾々がしばしば説いた所である。すべての時間性の根であり源である自然
前へ
次へ
全280ページ中99ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
波多野 精一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング