オての無や非存在は、實は反省によつて客體化されたる意味内容である。かかるものとしてそれは却つてむしろ一の有であり一の存在である。無を無として單純に攫まうとする働きは却つてそれを有として存在としてのみ手中に收め得るのである(三)。それにも拘らずそれが論理的の矛盾や背理として葬り去られず、思惟され理解される意味内容として成立ち得るのは、それが體驗に基づき體驗に源を有する事柄であるからである。體驗はこの場合にもあらゆる論理的疑惑を打拂ふに足る。缺乏・空虚・消滅等すべて無を契機とする事柄の體驗において又それを通じて無は體驗されるのである。時の體驗においても同樣の事態が存在する。現在は將來より來るや否や直ちに無くなつて行く。かくの如く有るもの存在するものが無くなること從つて現在における過去の體驗こそ無の體驗に外ならぬ。すなはち、時は生の存在の最も基本的なる性格として、それの體驗は無の體驗の從つてそれの思惟や理解の最も深き活ける泉なのである。無くなることの體驗を反省において處理することによつて吾々は無そのものの思惟や理解へと進み得るのである。
 過去は無くなること非存在に陷ることであり、過去となつ
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