スものは無きものであるといふ眞理を、體驗の明白に教へる所に從ひつつ素直に承認することは、「時と永遠」の問題の解決に向ふ途上實に基本的意義を有する極めて重要なる第一歩である。等しく肝要なる第二歩は「將來」の正しき理解である。吾々はさきに、無きところより來るを迎へるを將來の體驗の本質となし、從つて現在と區別される限りにおいて將來を非存在となす、考へ方を假りに一應許容した。これは、將來がまた「未來」とも呼ばれ、その場合呼稱そのものにおいてすでに非存在が表現されてゐる事實に徴しても、人々の傾き易きややもすれば最も自然的と見え易き解釋である。しかしながら立入つて精細に觀察すればこの解釋は誤つてゐる。今體驗の語る所に耳を傾けるならば、時において、現在における「將來」の契機において、主體が待ち迎へるのは無や非存在でなく、又非存在より來る存在でさへもなく、單純に存在である。非存在へと去りたる存在(現在)を補ふべく新しき存在(現在)が來るのである。存在を迎へる働きそのものは、主體にとつては、それの本來の自己主張(自己の存在の保存及び擴張)の基本的傾向に背進するどころか、むしろその傾向の最も自然的なる發現
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